沖田総司の死因は結核? 天才剣士でも勝てかなかった病とは
天才剣士と言われ、幕末の京を震撼させてきた新選組・沖田総司。
労咳という病により、志半ばで亡くなったとされています。
今回はその沖田総司の死因について、見ていくことにしましょう。
池田屋での昏倒は、実は「結核の悪化による喀血」ではなかった?
現代の認識として、沖田総司は「有名な池田屋事件のとき、敵を一人斬り伏せたあと肺結核による喀血・昏倒し、その後戦線離脱した」とされているのは、子母澤寛の「新選組始末記」の影響によるものと思われます。
しかし、残された史料によりますと、池田屋事件の翌月の「禁門の変」の時も出動していますし、「近藤勇書簡」「島田魁日記」などにも、離脱の記述はなく、近年では子母澤寛の創作ではないかと言われています。
池田屋事件は1864年。その後は、新選組を小隊制にした時も一番組の組長に任命されたり、脱走の罪で切腹した山南敬助の介錯人を務めたり、近藤勇より次期宗家を期待をされたりと活動している様子が見えます。
池田屋事件のとき、喀血するほど病状が悪化しているのであれば、余命は半年から、長くても一年とされているので、つじつまが合わないことにもなってしまいます。
仮に肺結核が原因の昏倒だったとしても、周囲の人間にはまだ悟られないほどの病状だったと思われます。
また、永倉新八による「新選組顛末記」では、沖田が昏倒したことのみ書かれていて、喀血や吐血の文字はないとされます。
池田屋事件があったのは、暑いとされる京の夏も盛りの祇園祭の頃。討ち入りということで、帷子などの装備もしっかりしていたことでしょう。近年の研究では、熱中症による昏倒という可能性が高いとされています。
沖田の発病について、医師の記録
近藤勇の胃痛を診察したことから交流が始まり、新選組を最期まで物心ともに支え続けた「松本良順」という幕府典医がいます。
松本良順は、慶応元年(1865年)に、新選組隊士約170人に対して健康診断を行ったという記録が残っています。
その当時の隊士の半数近くはなんらかの病に罹っていたらしく、罹患者数第1位は風邪、2位は食あたり、3位は梅毒であったとされています。
中には、心臓疾患や肺結核などの重大な病気をもっているものもいたそうで、この肺結核の診断をされたのが沖田総司ではないかとする説もあります。
慶応3年(1867年)の四条大橋での喧嘩事件のころには、沖田総司の病状はかなり悪化していたようです。
同年の12月に起こった「元御陵衛士による近藤勇狙撃事件」の犯人を追うのに、病床の総司に変わり二番隊長の永倉新八が総司の一番隊を率いて行ったとされています。
この時の怪我の療養で近藤勇が大阪に向かう際、沖田総司も同行し、共に療養しました。
屈強な剣士をも蝕む「労咳」とは
沖田総司の死因「労咳」とされ、今では結核と言われる病気です。結核菌という細菌が体を虫ばみ、やがて死に至ります。
呼吸器疾患のイメージが強い結核ですが、他の内蔵や骨や筋肉まで体のいたるところに発病します。有名なところでは、結核が脊椎を侵す脊椎カリエスでしょうか。明治の俳人正岡子規の死因もこれに当たります。
現代では特効薬が発見され、克服された病気ですか、当時の労咳は不治の病とされ、多く人々に恐れられました。
土方歳三の両親や姉も労咳で亡くなっていますし、そもそも江戸時代には罹患数の多い病だったと推測されます。
鍛えられた肉体を持つ剣士さえも、勝てない病「結核」。
大阪での療養後、戦場に復帰する近藤勇を追って甲州に向かいますが、途中で病状が悪化し、江戸に戻され医師松本良順の治療を受けます。
慶応四年五月三十日(1868年)療養先の千駄ヶ谷植木屋平五郎宅の一室で1人亡くなりました。