新撰組一番隊長沖田総司の墓はどこにある!?
新撰組一番隊長として京都の治安維持に身命を賭しながら、志半ばにして亡くなった沖田総司。その悲劇性もあって、今も総司を慕う人は絶えません。
そんな沖田総司の墓に詣でるのはどうしたらいいのでしょう。
沖田総司の死因
沖田総司が体調を崩し、新撰組隊員としての活躍ができなくなるのは慶応3(1867)年以降のことです。
その原因は労咳、現在の肺結核であったと言われています。
子母澤寛の「新撰組始末記」では、元治元(1864)年6月の池田屋騒動の最中に喀血して戦線を離脱したとされています。映画やドラマなどでもこれを踏襲していることが多いのですが、翌月の禁門の変に出動している記録もあり、池田屋で昏倒したのは事実であったとしても、それが喀血のためかどうかは疑問の点も多いようです。
確実なのは慶応3(1867)年12月には、近藤勇の妾宅で療養していたことで、翌年1月の鳥羽・伏見の戦いには参加できずに大坂に後送されている点を見ても、慶応3(1867)年の後半には病状が悪化していたと推測されます。
大坂を経て江戸へ送られた総司は、幕府の医師・松本良順の治療を受けつつ千駄ヶ谷の植木矢に匿われ、慶応4(1868)年5月30日、結核によって亡くなります。
沖田総司の墓の場所
墓所は東京都港区元麻布3-1-37の専称寺にあります。 専称寺は浄土宗の寺院で、筒井順慶の姪で織田信長の側室であった三光院清心比丘尼が開基となり、澄譽傳郭上人が開山となって創建された古刹で、一向山三光院と号します。
ここは沖田家代々の墓所で、賢光院仁誉明道居士という戒名の沖田総司の墓もここにあるのですが、墓地内にご先祖の墓がない一般の人の立ち入りは禁じられています。
一般人が沖田総司の墓前に詣でることができるのは、年に一度の沖田総司忌の午前10時から正午までですが、これも新撰組友の会という親睦団体の尽力で専称寺の許諾を得ているものなので、厳格なルールを守って墓参する必要があります。
沖田総司の墓参りがここまで厳しいのは、新撰組ブームが起きてから一部の心ないファンが、鼠小僧の墓のように墓石の一部を削って持って行ったりするトラブルが続いたのが原因です。 沖田総司の墓に参詣したい人は、塀の外から拝んで下さいというお寺からのお願いが書かれているので、墓参をしたい人はこれをしっかり守りたいものです。
沖田総司の子孫っているの!?
生涯独身だった沖田総司には子供はいません。 しかし、沖田家を継ぐ人はいます。 陸奥国白河藩藩士・沖田勝次郎と日野宿四谷宮原家の娘・ミキの間に生まれた沖田総司には、ミツとキンという二人の姉がいました。
次姉のキンは越後三根山藩牧野家の家臣・中野由秀に嫁いで沖田家の人ではなくなりましたが、長姉のミツは新撰組と分かれた新徴組の隊士であった井上林太郎を婿養子に迎え、沖田の家名を存続させます。 行政学者で明治大学政経学部名誉教授の沖田哲也は、ミツの曾孫にあたります。