新撰組のブレーン 最期は壮絶な切腹死を遂げた山南敬助の性格とは
新撰組幹部の中でも、特に謎の多い山南敬助。
その姓は、現在一般的には「やまなみ」と読まれることが多いようですが、「三南」「三男」と書かれている史料があることなどから「さんなん」と読むのが正しいとも言われています。
山南敬助は新撰組において、試衛館時代からの主要人物で幹部であったにもかかわらず、名字ですら、このようにはっきりとしない人物であります。
2004年の大河ドラマ「新撰組!」では俳優の堺雅人さんが好演し、注目が集まりました。
今回は、そんな山南敬助の性格について、検証してみたいと思います。
親切者・山南
新撰組の前身である壬生浪士組が屯所を構えたのは、壬生の八木邸でした。
「子どもが好きで、私などとどこで逢ってもきっと何か言葉をかけたものです」と、八木家の住人であった八木為三郎は山南敬助について『新撰組遺聞』でこのように語り残しています。
山南敬助は、温厚で優しく、隊士たちにも「さんなんさん」と親しまれ、とくに沖田総司には実の兄のように慕ったといいます。
壬生の女性や子供たちにも慕われていたようで、壬生界隈で生まれた「親切者は山南・松原」との言葉が、明治の初めごろまで伝わっていたと言います。
隊内の信頼も厚い、文武両道の人
山南敬助は、北辰一刀流、小野一刀流を治め、他流試合において天然理心流の近藤勇に敗れてからは、近藤の試衛館の門人となるべく申出、試衛館の食客となりました。
近藤勇の天然理心流四代目就任披露の試合では、赤軍として参加したり、また、門人の沖田総司らと共に、出稽古にも加わっていたことから、近藤勇や試衛館の門人たちにも信用されていたことが分かります。
アンチ新撰組として多くの資料を残している西本願寺寺侍の「西村兼文」も、山南については「理のわきまえある者」とよく評価しています。
また、新撰組をスポンサーとしてサポートした小島鹿之助も「武人にして文あり」とのべていることもあり、新撰組の中でも特に学問に優れ、まさしく文武両道な人であったことがうかがえます。
武張ったところの多い近藤勇と試衛館の面々にとってみれば、剣術の腕前と同様、学問にも優れ知的な山南の存在は、何物にも代えがたいものだったのでしょう。
生真面目で強い信念を持つ勤王派、あやうい一本気
山南が、天然理心流の食客となった経緯は、先ほどご紹介しました。
山南が江戸で修行してきた北辰一刀流や小野一刀流は、江戸でも一流と名高い道場でありました。
そこでの免許皆伝の腕前をもってしても、多摩の一道場天然理心流に勝てなかったという事実に、山南はショックを受けたのでしょう。その場で試衛館の門人となるべく願い出ています。
田舎道場と馬鹿にせず教えを乞うその姿勢は、純粋に強さを求める真面目さがうかがえます。
また、八月十八日の政変での御所警護に向かう際、近藤土方両氏が甲冑を身に着けた重装備でいるのに対し、山南には甲冑が用意されていなかったことに腹を立て、仲の良かった幹部隊士の松原忠司になだめられたといいます。
このエピソードからも、筋道の通っていない事には納得できないという一本気な面を見ることができます。
創作だった?芸者明里との涙の別れ
山南には、島原の遊女・明里との切ないロマンスのエピソードが、よく知られています。
いざ切腹に臨まんとする山南と一報を受け駆けつけた恋人明里との、格子ごしの別れの場面は、多くの人々の涙を誘ったもの。
しかし、これは新撰組三部作の著者「子母澤寛」の創作の可能性が高いと言われ、永倉新八の書いた「新撰組始末記」にも明里との逸話はありません。そもそもの明里の存在すらも、確定的ではないようです。
山南の最期を悲しく彩るかのような、明里とのエピソードは、その優しくて不器用な生き方ゆえに死を選ばなくてはいけなかった山南に同情する、後世の人々のそんな気持ちから作られたのれかもしれません。
変わっていく新撰組に失望か 止められなかった山南の死
山南敬助の最期は、壮絶な覚悟の切腹でした。
その理由については、脱走のうえ追っ手に捕まり隊規違反で切腹、駆け落ちに失敗などと諸説ありますが、西本願寺への屯所移転問題で、近藤・土方と対立がきっかけだったとされる説があります。
西本願寺に屯所を移すことに反対を唱えた山南の意見を、近藤と土方は聞き入れず移転を断行したとされ、先出の西村兼文は山南の切腹を「山南と近藤の意見が対立して、憤慨のあまり自刃した」と書き残しており、ここには定説とされる脱走の記述はありません。
尊王攘夷の志を掲げ上洛したはずの新撰組でしたが、幕府と朝廷の間で溝が深まっていくと、「幕府大事」とあくまで佐幕派に偏っていきました。
このままではいけないと山南は思っていたでしょう。しかし、屯所移転を巡る反対意見をはじめとした、ほかのさまざまな事柄も新撰組の実権を一手に掌握した近藤・土方には山南の言葉は届かず、もはや新撰組のこれからを絶望視したのかもしれません。
山南の屯所での切腹は、近藤に対する「体を張った抗議」とする説もあります。捕らえられた山南に、永倉新八はや伊東甲子太郎は再三脱走を進めたといますが、それを断り死に向かったといいます。
もし、それが本当であれば、命を賭して信念を貫いた、非常に熱い面が見えてきます。
以下の句は、新撰組に途中から参謀として招かれた伊東甲子太郎が、山南の死を悼み贈った句です。
春風に 吹き誘はれて 山桜 散りてぞ人に 惜しまるるかな
切腹の原因として、「伊東の入隊が山南のブレーン的な新撰組内のポジションや居場所を奪うことになり、居場所がなくなった山南はうつ状態になって、思い余って自刃したのでは」という説もありますが、伊東のこの句を見る限り2人の対立はなく、思想を同じくする友人としてその死を悲しんでいるように読み取れます。
山南たっての希望で介錯を務めた沖田は、その後、土方とはしばらく口を利かなかったといいますし、切腹を命じた側の当の土方歳三でさえ、涙を流したといいます。
1865年3月23日、壬生屯所の前川邸の奥座敷にて切腹、山南敬助はその33年の生涯を閉じました。
前川邸で行われた山南の葬儀には、壬生の近隣住人らも多くつめかけその死を悲しんだそうです。亡骸は家紋を同じくする壬生近くの光緑寺に眠っています。
現在でも、山南敬助の人柄と生涯を偲び、京都の旧前川邸で毎年3月のはじめに、『山南忌』が行われています。