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真面目で几帳面!? 明治を生きた新撰組三番組長 斎藤一の性格とは

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忠義に厚い人だった、いや、人目を欺く三重スパイだったとさまざまな憶測が飛び交う、新撰組の三番組長斎藤一。

その出自や行動に謎が多く、戊辰戦争を生き延びたものの多くを語ることはなかったため、正体不明の人物と言われています。

今回は、そんな斎藤一の性格を伝わっている証言やエピソードから検証してみたいと思います。

上辺だけでは見えにくい、斎藤一の一貫性

無口で寡黙。酒豪ではあったようですが、他の隊士たちと比べ派手なエピソードはほどんどなく、どちらかといえば地味な人柄。

いたって剣の実力は高く、新撰組の撃剣師範永倉新八や、天才剣士と名高い沖田総司と肩を並べるほどの腕前だったと言われています。

局長:近藤勇や副長:土方歳三の信頼も厚い懐刀として、公にできないような暗殺や粛清などの汚れ仕事も任される一方、増長してゆく近藤への批判を永倉新八・原田左之助らとの連名で会津藩に訴えたりしています。

また、新撰組に参謀をして迎えられた伊東甲子太郎が、御陵衛士(高円寺党)として分隊したときも、勧誘され藤堂平助と共に新撰組を離れています。が、じつは土方歳三の命を受け御陵衛士の動向を探るスパイだった、との説もあります。

戊辰戦争では、近藤勇亡き後北上する土方歳三とは袂を分かち、堕ち往く会津藩と最後まで運命を共にする「忠義」の人と呼ばれたり。

かと思えば、これまでさんざん「憎し」と戦いつくしてきた明治政府に、その後は警察官として仕え、国内最後の内戦と言われる西南戦争へも抜刀隊として参加していたり・・・・

こうして文字だけで、斎藤一の生涯を追ってみると、斎藤一の生涯には一貫性が無いようにも見えます。

度々の改名も相まって、見る視点によってはどこかうさん臭さが感じられることも。

武士の時代の終焉に殉じ、多くの志士たちに比べ、生き残ることを選び続けた斎藤一の、「義」はどこにあったのでしょうか。

斎藤一の性格は、彼の信じた「義」とその生き様を見ることで推測できます。

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信じたものの為ならば、汚れ仕事も躊躇なし

新撰組の参謀伊東甲子太郎が、意を同じくするものを率い新撰組から分離し結成した「御陵衛士」

円満な分隊を装っていましたが、尊王攘夷の企てをもって気を窺っているような怪しさがあります。

そこで近藤勇・土方歳三は、伊藤甲子太郎が人柄と腕前を気に入り声をかけていた斎藤一を、間者(スパイ)として御陵衛士にひそかに潜り込ませました。

他にも隊士がいながら、なぜ斎藤一がスパイとして選ばれたのか。

それは、斎藤が天然理心流の門人であること、寡黙で真面目な性格であることが、間者とするに適した人物であったことにほかなりません。

御陵衛士としてして振る舞い続ける中で、伊東甲子太郎の中に近藤勇の暗殺計画があることを知り、その情報を持ち斎藤一は御陵衛士を逐電します。

その時、「近藤の襲撃をする前に、馴染みの芸者を落籍せたいので金を貸してくれ」といい、伊東のひんしゅくを買うという「演技」をし、50両を持ち出しました。

もちろん駆け落ちなどではなく、向かった先は近藤の妾宅。知らせを受けた近藤・土方はすぐさま伊東甲子太郎の暗殺を御陵衛士の壊滅を決定します。世にいう「油小路の変」です。

近藤勇の期待に応え、しっかりと任務を果たしてきた斎藤一でありましたが、御陵衛士側からは、このようにいかにも「無能」といった証言がもたらされてしまっています。

「金と女にだらしなかった」(元御陵衛士)

「国家の何たるかを弁えぬ人間」(阿部十郎)

会津への忠義を胸に、会津藩士として生きる

鳥羽伏見、甲州勝沼と敗走を続ける新撰組に、会津藩から援軍の要請が来ます。

戦況は芳しくなく、会津はまさに落ちんとしていました。そんな会津からは撤退案もあるなか、斎藤一は、

「ひとたび会津へ来たりたれば、今、落城せんとするを見て志を捨て去る、誠義にあらず」(谷口四郎兵衛日記)

と、たとえ一人でも残り会津と共に戦うことを選択しました。

近藤亡き後、新撰組を率いていた土方歳三は、斎藤一に会津を託し、旧幕府軍とともに僅かな勝機を求めて北上を開始しました。

そこでも斎藤は戦い抜きます。やがて会津は敗戦、降伏。生き残った者たちは取り調べのあと謹慎とされ、その後会津藩は荒涼とした北の斗南へと改易となります。

斎藤一は、謹慎中、脱走に成功しています。そのまま、北へ向かった土方を追うことも考えたことでしょう。

しかし、新撰組を抱え取り立ててくれた会津藩への恩義も捨てがたく、斎藤一は「藤田五郎」と改名し、会津の人々と共に生きていくことを選び取りました。

新天地の斗南は、夏でも冷たい風「やませ」が吹き降りる農耕に向かない荒れた土地で、極寒の冬には粗末な家屋で十分な暖も取ることができず、死者が多く出ました。

そんな塗炭の苦しみの中においても、斎藤は本来の真面目さを十分に発揮し、投げ出さず、諦めず、貧しいながらも日々を送りました。

その姿は、京時代の黙々と任務を遂行する新撰組隊士斎藤一と共通しています。

苦しい生活を共に過ごしながら、斎藤と会津はますます強いきずなで結ばれていくのです。

明治政府下で、警察官になった経緯も、元会津藩家老の佐川官兵衛の取り立てがあったことが事実としてありますし、抜刀隊として西南戦争へ向かったのは、そこで活躍し、会津が被った朝敵の汚名を少しでも雪ごうとしたもの、とは考えられないでしょうか。

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斎藤一の持つ「武士」像

「質問に対してすぐに答えるという方ではなく、一語一語よく考えてからお答えになる方でした」とは、実際に斎藤一から話を聞いたという滝上鉄男という人の証言です。

また、斎藤一の孫にあたる斎藤實(みのる)氏は、「祖父は無口な性格で、大変目付きの鋭い人で、常に武人らしい生活ぶりでした」と語り、武士らしく折り目正しい、寡黙な人物であったことがうかがえます。

歳を取ってからも、自分の褌は自分で洗い、几帳面にもしわを伸ばして干すことを習慣としていたとの逸話があります。

息子の嫁が「そんなことは私がやります」と言っても譲らず、「自分の下着は自分で洗うのが武士のたしなみである」と言っていたそうです。

斎藤一がこれまで、人生の岐路に立つたびに選んできた道はどれも、「今目の前にある問題に真摯に向き合い、自分の武士としての志が曲がらない」というスタンスで選び続けてきた結果のように見えます。

「いたずらに死を選択することは真の勇気ではない。卑怯なことであり、犬死と同じである」

明治期に書かれ世界的なベストセラーになった新渡戸稲造の「武士道」にもあるように、武士としての生き方は時には時代遅れで、他人の目には無様に見えることもあることでしょう。

それでも、武士としての矜持を胸に、戊辰戦争を生き抜き、明治を駆け抜けた斎藤一は、大正4年9月28日、72年の生涯を終えました。

死期を悟った斎藤は、家族に床の間に運んでもらい武士らしく端座し、妻と嫁に看取られながら息を引き取ったといいます。

最期の最期まで、真面目な斎藤らしい逸話です。

北村美佳子

投稿者プロフィール

いにしえに想いを馳せて、一人涙し、一人ニヤつく。そんな日本史をこよなく愛するライター。重度の活字中毒でもある。愛読書は梅原猛氏の本。
日本史が好き過ぎて、記事を書きながら悶絶することも多々あるけれど、いくつになっても好きなものは好きだと言える女でいたい、そう願って邁進中であります。

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