夭逝した天才剣士、新選組の沖田総司はどんな性格だった?
幕末は、近代化という大きい波が押し寄せてくると同時に、多くの志士たちが命を懸けた死闘を繰り返した時代でもあります。
新選組もその1つ。
「子ども好きで、無邪気、陽気によく笑う人物だった」と評されることが多い、沖田総司。
一方では、近藤勇に道場の跡継ぎとして見込まれるほど強く、戦ともなれば多くの敵と斬り合うことになる一番隊の組長でもありました。暗殺や粛清、介錯などで刀を振ることも多く、人斬りと志士たちにも恐れらた人物です。
今回は、「陽気な沖田」と「人斬り沖田」、相反する二つの性質が不思議と同居する沖田総司の性格について、伝わっているエピソードを元に考察していきたいと思います。
沖田総司の生い立ち
沖田総司は、奥州白河藩士の足軽子頭・沖田勝次郎の長男として、江戸藩邸に生まれました。総司が2歳(4歳とも)の時、父親が亡くなります。
長男ではありながらも家督を継ぐには幼いため、姉のミツとの結婚を前提に養子に入った井上林太郎が養子に入り沖田家を継ぎました。
しかし、父親が亡くなったので沖田家は白河藩邸から出ざるを得なく、生活は厳しいものだったと伝わっています。
養子に入った井上林太郎は、天然理心流三代目宗家:近藤周助の門人であり、後に新選組の幹部の一人となる井上源三郎の親戚でもありました。
林太郎と姉ミツとの結婚・出産を機に、天然理心流の内弟子として近藤周助に預けられることになったのは、そのような関係からであることが推測されます。
このとき沖田総司は9歳頃。口減らしの意味もあったのでしょう、これより試衛館での修行の日々を送ることなりました。
試衛館と併設されている周助の自宅には、すでに四代目宗家を継ぐべく養子に入った近藤勇がいて、年若い総司を弟のようにかわいがり目を掛けたとされています。
幼くして家族と離れてしまった総司もまた、勇を兄のように慕ったことでしょう。
剣士としての沖田総司
試衛館に入門してから、めきめきと力をつけた沖田総司。天賦の才があったのでしょうか。17歳の時すでに塾頭を務めるほどの腕前になっていました。
後に戊辰戦争を生き残った新選組の永倉新八は「土方歳三・藤堂平助・山南敬助・井上源三郎などは、竹刀を持つと子ども扱いされた。本気で立ち会えば近藤勇でも勝てなかったであろう」と語っています。
短気ですぐ怒るので天然理心流の門弟たちは、総司との稽古を嫌がったと言います。口癖は「刀で斬るな、体で斬れ!」総司の稽古はかなり厳しく、師匠の近藤勇よりも恐れられていたそうです。
沖田総司が刀を振るった主な事件は、「芹沢鴨暗殺」「大阪力士乱闘事件」「池田屋事件」「四条大橋の戦い」で、それ以外でも、粛清や暗殺など多くの人を斬ってきました。
試衛館時代からの仲間であった山南敬助の脱走事件にもかかわり、山南の切腹の際には介錯を務めています。その時に総司が書いたとされる書状が現存しています。そこには「山南兄、去月二十六死去つかまつり候」とのみ書いてあり、淡々ともみえその心情はうかがえません。
兄のように慕ったであろう山南の死に対して、総司はどのように思ったのでしょうか。
介錯は始め永倉新八が務めるはずでしたが山南のたっての希望と総司の願い出により、介錯することになったのです。近藤勇の名とあらば、非情の剣をもいとわない印象の総司ですが、山南の介錯はせめてもの優しさだったのでしょうか。
新選組と敵対していた阿部十郎は、近藤勇の高弟、沖田総司は本当に残酷な人間で、政治的な思想や背景を持たない「人殺しの道具」と総司を批判しています。
結核を患っていたとされ、池田屋事件での昏倒以降、病のため目立った活躍は少なくなっていきます。
子供好き!? 八木為八郎の証言
後世に残る沖田総司の「子ども好きイメージ」の印象を決定付けたのは、当時壬生浪士組の屯所としていた八木邸の子ども、八木為八郎の証言でしょうか。
「壬生寺でよくかくれんぼや鬼ごっこで遊んでもらった」とのことです。当時の隊士の中には子どもの相手をしてくれるような若い者もいたようですが、為八郎は総司と遊んでもらったことが印象深かったと見えます。
「二十になったばかり位で、私のところにいた人の中では一番若い」と子どもの目には映ったのでしょう。実際には藤堂平助や斎藤一など年下の隊士がいましたが、総司は子どもっぽく見えたのかもしれません。
八木邸で起こった「芹沢鴨暗殺事件」の巻き添えを食って、怪我をした八木家の子どもを心配していたとの話もあります。
これらは、子母澤寛という作家の、八木為八郎への取材や手紙のやり取りなどを元に書かれた「新選組遺聞」という本が元になっています。
また、小説家の司馬遼太郎が1960年前後、新選組の本を書くために、「幼い頃沖田総司に遊んでもらった」という老婆への取材に成功しています。
刀を持たない沖田総司は、陽気で冗談を良く言う明るい性格だったと言われています。
尊王攘夷派であり、新選組に対して批判的な西本願寺侍臣・西村兼文も、山南と沖田はいい人だったという言葉を残しているそうです。
まとめ
「無邪気で子どもっぽい」総司だからこそ、国のため、幕府のためというよりも、ただ、師あり兄のようでもあった近藤勇を素直に信じ、その剣を振るってきた印象の沖田総司。
剣士としてではない本来の沖田総司は、陽気で人の良い性格だったようです。
自分の刀は、近藤率いる新選組のためのもの、自分が強いことこそ、近藤のために役立っているとそう思っていたのかもしれません。
結核の悪化のため、療養中の沖田総司を、甲陽鎮部隊として江戸を離れる際、近藤勇が見舞ったときのこと。普段は陽気な総司が声をあげて泣いたというエピソードが残されています。
敬愛する近藤のために、新選組の刀として生きたかった総司の、もどかしさや苦しみが伝わってきます。