新撰組といえば「誠」。
隊旗にもあの浅葱色の羽織にも、「誠」の文字が書かれています。
言霊の国日本において、彼らが掲げた「誠」の文字に込められた意味を知ることは、そのまま彼らの生き様や思想を知ることにも繋がります。
今回は、新撰組「誠」の文字に込められた意味を探ってみようと思います。
新撰組が「誠]と掲げた理由諸説
試衛館ではなく「誠衛館」だった説
近藤勇が師であり養父である近藤周助から引き継いだ「試衛館」ですが、実は「誠衛館」だったとの説があります。
また、風になびく誠の文字が試衛館の「試」の文字に見えるからとの説もあり、いずれにせよ、水戸藩出身の芹沢派と拮抗していた時期に作られたということから、近藤試衛館派の台頭を願ったのだともいわれています。
儒教の「中庸」から採った説
儒教の教えを説いたとされる「中庸」には「至誠、天に通ず」という言葉があります。天とは、水は上から下に落ちるような、芽が出てから花が咲くような、自然の理、万物のルールのことです。儒教思想や仏教、神道などの教えと結びつき、日本で独特に醸造された武士特有の道徳観念「武士道」では、「誠」は大切な徳目の1つです。
誠は、「言」を「成」す、一度言葉にしたことは必ず成すという漢字の成り立ちから、「武士に二言はない」という言葉ができました。誠とは内外一致、表裏一体、自分にも他人にも純粋な心で向かい、思ったことを実行し、しっかりと成されるまで継続する、という意味もあります。
「誠」は武士にとって大切なキーワードです。本物の武士に憧れつづけた近藤勇・土方歳三が、もっとも大事にしたかったのが、「誠」であったのかもしれません。
芹沢鴨の出身 水戸藩の思想「誠忠」が元とされる説
新撰組のもう一人の局長芹沢鴨は水戸藩の出身。水戸藩思想において最も高い徳が「誠忠」だったということで、芹沢が考案したとされる説もあります。
また、新撰組の前身である壬生浪士組が、「誠忠浪士組」と名乗っていたので、そのことから隊旗にもこの誠という文字を採用したという話もあるようです。
「誠」の旗が使われた時期
それでは、続いてこの「誠」という文字が書かれた隊旗が使用され始めた時期をみていくことにしましょう。
新撰組の二番隊を率い、鳥羽伏見の戦い以降新撰組を離隊、明治を生き抜き天寿を全うした永倉新八が、新撰組の真実を生き証人として残すべく描いたとされる「新撰組顛末記」では、八月十八日の政変の出動時に初めて掲げたと証言しています。
八月十八日の政変といえば、薩摩・会津の両勢が、政治の実権を握る長州勢を京から追放した、いわゆるクーデターです。
もちろん会津藩お抱えの壬生浪士組にも出動要請が来ました。
そして、その働きにより、壬生浪士組が会津藩から「新撰組」の名を賜った、初の晴れ舞台といってもよい事件でもあります。
それ以降、局長近藤勇の処刑、斎藤一の会津残留を経て、函館弁天台場にて土方歳三が戦死し、戊辰戦争の終結するその最期の時まで、「誠」の旗はその志を支え続けました。
まとめ
旗に書かれた『誠』の文字の真相はどれもこれも推測の域を出ず、はっきりとした理由は明言されていません。
しかし、間違いなく「誠」とは、新撰組隊士たちの武士としての理想を表していたに違いはないでしょう。