英傑?暴君?幕末最強の武装集団、新撰組局長「近藤勇」の性格とは?
幕末最強ともいわれ、京を震撼させた、新撰組。
その新撰組を束ね、武士の世の終わりに儚くも殉じた局長「近藤勇」とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。
今回は、残されたエピソードや証言から、近藤勇の性格を探っていきたいと思います。
実はわがままで暴君?
新撰組は、滅びゆく運命の封建的な武士政権に固執し明治維新を遅らせた要因の1つとされ、長い間「悪者」として扱われてきました。
内部抗争や粛清、暗殺や御用改めと、多くの血を流がし、何事も暴力で解決する野蛮な田舎侍、と京の人々にはなかなか受け入れられ無かったのも事実。
烏合の衆をまとめ上げる近藤勇もまた、当然のように人々からは恐れられ疎まれていたようです。
「思慮モナキ痴人ナリ」(根岸友山)
「強情」(田島応親)
「潔癖すぎ」「部下が少しでも間違えるとガミガミいい、衆人稠座の中でもかまわず侮辱する」(結城無二三)
「一徹短慮の者」(西村兼文)
「おべっか者」(中村維隆)
「蛮骨をもって鳴らしただけ、おうおうにしてわがままの挙動」(永倉新八)
このような証言が残っています。
中でも、試衛館時代からの生え抜きの幹部、新撰組では2番隊の組長を務めた永倉新八の証言は、なかなかに辛辣なものであります。
考え方の違いによりかねてから齟齬があったようで、大敗を喫した鳥羽伏見の戦いを期に、永倉新八は原田左之助と共に新撰組を離隊しました。
一枚岩だったはずの新撰組がいつしか、鱗の一枚一枚が剥がれていくように、思想の違いや怨みの連鎖などさまざまな原因によって仲間を減らし続けていきます。
近藤にとって武士の生き様とは「徳川幕府」があってこそのもの。
近藤の幕府直轄地・多摩で培われた「将軍ありき」の精神は、純度が高い分、敵対する視点から見るとたしかに、「強情」「痴人」「蛮骨」と見えるかもしれません。
また、近藤勇は愛刀を名高い銘刀である「虎徹」だと自慢していたという話もありますが、じつは「虎徹」の銘は偽物だったという説もあります。
このエピソードから、近藤が自己顕示欲の強い人物であるという見方をする人もいます。
英雄、色を好む?女性関係も多かった近藤勇
近藤勇は、江戸に妻子を残して浪士組に参加、上洛しました。妻の名は「つね」といい、不美人であったと言われています。
近藤が不美人の妻を娶ったことには理由があり、「醜女こそ貞淑である」との持論があったことと、道場主の妻が男所帯を惑わすことのないよう不美人を選んだのだとか。
それでも、つねへの愛情はあったようで、鳥羽伏見後の東下の際、「妻子に逢えるかと思うと嬉しいものだ」と榎本武明に語ったというエピソードが残っています。
その時つねへは指輪を贈ったのだそうです。残念なことに、それが夫婦の今生の別れとなってしまいます。近藤亡き後、何度も見合いを進められましたが「二夫に仕えず」といって喉を突いての自殺を図ったそうです。やがて、娘は成長し他家へ嫁ぎますが、若くして亡くなってしまい、再婚を拒み続けたつねもまた56歳で亡くなりました。
近藤勇が、京都で愛した女性といえば、「深雪太夫」です。深雪太夫は大阪新町「折屋」の芸妓で、背の高い美人だったと言われています。
近藤は深雪太夫を落籍せ、京都にある新撰組の休息所の1つを当てますが、病弱だった深雪太夫は1年ほでで亡くなってしまいます。(200両の手切れ金で別れたとも・・・)
その後、近藤は深雪太夫の妹「お孝」を妾とし、娘をもうけています。結核が悪化し、屯所にいることのできなかった沖田総司の世話をしたものこのお孝です。娘はお勇と名付けられ、長じてからは芸妓となり伊藤博文や井上馨やの贔屓を得て不自由なく暮らしたと言います。
他にも、京都で5本の指に入るほどの美女、23歳の「島原木津屋遊女・金大夫」や、近藤との間に男児を設けた「京都三本木芸妓・駒野」など、妾として囲っています。
駒野の生んだ男の子は、京都のお寺で仏門に入り、近藤を弔いながらその一生を終えたと言います。
江戸に妻を残しつつも、京都で美女を多く囲うことができたのは、それだけ新撰組局長の羽振りが良かった証拠とも言えます。
当時は、女性の数=男の甲斐性といった風潮がありましたので、「英雄色を好む」との見方もできますね。(現代に生きる私は、そんな扱い冗談じゃない!と思ってしまいますが)
温厚で賢勇、将の器あり!
一方、近藤勇に対して好意的な証言をまとめてみましょう。
「温厚な人物で、けっして無鉄砲に乱暴を働くような男ではなかった」(渋沢栄一)
「非常に愛嬌があり、村の百姓たちにも、いつもにニコニコ笑っていた」(綾瀬村の住民)
「私たちに逢っても、なにかしら言葉をかけてニコニコして見せる。無駄口は利かず立派な人」(八木為三郎)
「ニコニコしている上に、両頬に大きな笑窪が出るので、逢った感じは物優しい」(佐藤俊宣)
周囲の人に対し、いつもにこやかに接し穏やかだったという近藤勇。とくに、武士ではない一般の人への優しさが感じられます。
女性にモテたというのも頷けますね。
また、若い頃には誰よりも剣術に励み努力を惜しまなかったといい、家に押し入った強盗を冷静な判断で状況を読み追い払ったとのエピソートが残っており、努力家で、度胸があった人物だったことがうかがえます。
新撰組の隊士であった人物からも、以下のように評されるように、近藤勇には組織の長たる器が備わっていたようです。
「実に古今無双の人傑なり」(島田魁)
「性質賢勇にして能く事に臨んで動ぜず、変に応じて奇策を巡らす。大量なる事、実に主将の器というべし」(中島登)
組織としての新撰組の実権を一手に握るのは、局長の近藤勇ではなく、副長である土方歳三であったと言われています。
剣の腕前と、戦況を読む冷静さ、厳しく強引とも取れる組織をまとめるその手腕。これらを兼ね備えた土方が、局長の座につかず、あくまでナンバー2として近藤を支え続けた理由。
また、天才剣士として名高い沖田総司が、近藤率いる新撰組の刀として手を血に染め、暗殺や粛清などの裏仕事もいとわなかった理由。
それは、近藤勇のもつリーダーシップによるものではなかったのでしょうか。
近藤勇の生き様から見る「リーダーシップ」「長たる器」とは
局長の近藤勇が神輿なら、その担ぎ手は土方歳三です。
「ナンバーツーに都合よく使われている傀儡としてのナンバーワン」は、どんな世の中にもどんな時代にも必ずいます。
しかし、近藤勇と土方歳三の関係はそれとは大きくちがいます。
「だまって仲間を信じ、委ねる度胸があり、泰然と担がれてやることができる懐の深さを持つ」、それこそが真のリーダーの姿ではないでしょうか。
幼い頃、父親に読んでもらった「水滸伝」や「三国志」の武勇優れた人物に、近藤は憧れたといいます。
後ろにドンと控えてくれているだけで隊の士気が上がる、そんなリーダー像を体現していたのかもしれません。
近藤勇は処刑の直前、これまで近藤を警護していた者たちに対し、「ながなが御厄介に相成った」と言葉をかけたそうです。
武士にとって最も不名誉な斬首という最期でしたが、粛々と運命を受け入れ、取り乱すことなく散ったその姿は、人々の目にどう映ったのでしょうか。