新撰組の斬り込み隊長!藤堂平助の性格とは
新撰組の八番隊組長をつとめ、斎藤一と並び最年少幹部としても知られる藤堂平助。
近藤勇の四天王とまで言われていた藤堂平助は、じつは津藩主のご落胤説のある人物です。
そんな藤堂平助は、いったいどんな性格だったのでしょうか。
誰よりも前へ!血気盛んな魁先生
武州、多摩にあった天然理心流道場試衛館に、北辰一刀流の藤堂平助が出入りするようになるのは、文久二年のころ。
その翌年、近藤勇・土方歳三・沖田総司らと将軍警護のための浪士募集に参加、上洛をはたしました。
壬生に屯所を構える壬生浪士組の一員となり、最年少で幹部となった藤堂平助は当時、20歳。
勇猛果敢な性格で、戦闘の時には誰よりも先に敵陣に突入したことから、『魁(さきがけ)先生』との異名を取りました。
「藤堂泉守のご落胤との噂でいたって美男子」(京師騒動見分雑記録)といわれ、小柄で立ち姿は「白梅のよう」だったそうです。
「智勇ともに秀でていた」(元桑名藩士・小山正武)
「小兵だが剣術はなかなかの腕前で学問もできた」(御陵衛士・阿部十郎『史談会速記録』)
「江戸っ子で有意の人材」(御陵衛士・鈴木三樹三郎)
と、文武両道であった証言があります。
一方で、若いこともありやんちゃが過ぎるのか、試衛館時代から品行が悪いと近藤によく注意をされていたといいます。
上洛途中、同じ浪士組であった石坂周造という人物が当時を振り返って「隊中にも、土方歳三、藤堂平助という悪者のいることを・・・」と証言したといいます。悪者と言われるような事として、何をしたのかは謎です。
素行は悪いが品があるといったところのようです。
芽生えた不信感、揺れる若い心
思想的には北辰一刀流の一派に多い熱心な「尊王攘夷」「勤王」派であり、浪士組から壬生浪士組に至るまでは、「将軍の指揮のもと行う尊王攘夷」を目指し、近藤勇らも志を同じくする同志でありました。
藤堂平助が魁先生のプライドをもって挑んだ1864年の池田屋事件では、新撰組の名は上がったものの、当初目指していた「尊王攘夷」とはかけ離れてしまう結果となってしまいました。
以降、新撰組が行うのは佐幕派の急先鋒部隊として、「尊王攘夷派の取り締まり」であり、歳若い藤堂はそんな新撰組に失望したのかもしれません。
その後、藤堂平助の北辰一刀流の師である伊藤甲子太郎の入隊、同じ北辰一刀流で学び試衛館の食客だった山南敬助の切腹など、藤堂平助の心を揺らす出来事が相次ぎ、新撰組に対しての不信感を明確にしていきます。
永倉新八の「新撰組顛末記」によると、近藤が幕府の手先となり当初の志であった「尊王攘夷」を行わないことに藤堂は不満を持ち、近藤を殺し伊東を局長として新撰組を「勤王」の組織にしたいと伝えたといいます。
近藤勇に対して、辛辣な見方を残している永倉新八の記述ですので、多少話が大きくなっているかもしれませんが、藤堂の不満はその通りだったのでしょう。
新撰組脱退へ
1867年、伊東に率いられ、藤堂平助は御陵衛士として新撰組を離れます。
やんちゃで、まっすぐで、勇猛果敢。そんな性格であった藤堂平助は、共に大志を抱き上洛した近藤が佐幕派の深みに流されていくようすを、許せなかったのかもしれません。
一方、表向きは円満な分隊という体裁を取っていたものの、近藤・土方は懐刀の斎藤一を間者として御陵衛士に同行させています。
そして、近藤勇の暗殺計画があるとして、反対に新撰組は伊東を暗殺、伊東の遺体におびき出された藤堂平助も若い命を京の寒空の下に散らしました。
検死の記録によると、鼻から口にかけて長さ21cm、傷の深さは6cmにも及んでいたといいます。
魁先生のプライドをかけ、このときも真っ先に抜刀したとも、反撃の隙も無く切りかかられ絶命したとも言われています。
また、永倉新八の「新撰組顛末記」によれば、近藤は「藤堂だけでもできるなら助けたい」と永倉に伝えたといいます。しかし、何も知らされていない新撰組隊士が斬りかかってしまったということです。
しかし、自分ばかりが近藤の情けで助かっても、一本気な性格のな藤堂平助であるならば、それを良しとしなかったのではないでしょうか。
七条油小路事件と呼ばれるこの粛清劇は、仇討の連鎖を生み、その後の近藤を襲うことになりました。