夭逝した天才剣士 沖田総司の必殺奥義三段突きとはどんな技!?
幕末に活躍した新撰組において、天才剣士の名高い沖田総司。
19歳で天然理心流の免許皆伝、塾頭を務めるほどの実力で、その強さは新撰組随一とも言われています。
今回はそんな沖田総司が得意としていた必殺技「三段突き」について紹介していきます。
早い段階で開眼した沖田総司の剣術の才
沖田総司は天保13年(1842年)、または天保15年(1844年)の夏、白河藩士:沖田勝次郎・みきの間に長男として、江戸白河藩邸に生まれました。
残念ながら、年月日を特定する史料はありません。両親が早くに他界し、父親の死によって収入がなくなり、生活は貧しいものでした。
二人いる姉の一人みつが、天然理心流門人の井上林太郎を婿に向かえ沖田家を継ぎ、長男であった総司は9歳にして、天然理心流道場「試衛館」の内弟子となります。
当時の試衛館の主は近藤勇の養父近藤周助で、同門として近藤勇、土方歳三、井上源三郎や山南敬助ら、後の新撰組として共に戦う面々がいました。試衛館での成長の日々は、家族と離れた総司の孤独を埋めるものだったのでしょう。その実力をめきめきと上達させていきます。
道場に入門して2年ほどたったころ、白河藩の撃剣師範と戦い試合に勝ったとのエピソードが残っています。
14歳で、試衛館を継ぐことになっていた近藤勇と共に近隣への出稽古に出向き、19歳で免許皆伝、同時に塾頭となりました。
総司の稽古は厳しく、荒く、門人たちを恐れながらも、総司はいずれ剣で大成するだろうと噂しあったと言います。
沖田総司得意の天然理心流奥義、三段突きとは
天然理心流の奥義とされ、沖田総司が得意とした「三段突き」は、正式な名を「無明剣」といいます。
平正眼(天然理心流では平晴眼という)の構えから間合いを詰め、踏み込む足音を一つ聞いたと思ったら、すでに三度の突きが入っていたと伝わっています。
突き技は「死に技」とも言われ、一度突きを繰り出すと、次の一手までの時間がかかり、もしも躱され反撃されたときには防御ができないという弱点があります。その点総司の突きは刀の構えは水平にし、刃を必ず外に向けておくことによって突き技から一転して斬る技に繋げることもできました。
また、総司の三段突きには諸説あり、この様に伝わっています。
- 頭、喉、みぞおちの急所三か所を、素早く突く
- 突く・引く・突く、の三連の動作を、三段と称した
- 頭・喉・みぞおちの三つの急所のうち、隙のある所を三度突いた
どの方法が正しいにしろ、強い足腰、気迫、技量がなければ成し得ない大業であったことが分かります。
天然理心流の特徴は非常に実戦向きであることと伝わっており、実際に突き技は狭く天井の低い室内戦では大いに役立ったことでしょう。
あの池田屋での激闘の際にも、総司は三段突きを繰り出したのかもしれません。
フィクションの中に見る 沖田総司の魅力
沖田総司は池田屋事件のあの夜、肺結核の悪化により、喀血・昏倒したと伝わっています。
それ以降、病状は悪化の一途をたどり、戦線を離脱したまま孤独に最期の時を迎えることになります。
1人千駄ヶ谷で療養中の沖田総司を、甲陽鎮部隊として出向く前に近藤勇が見舞ったとき、普段は強気で明るい彼が、声を出して泣いたとのエピソードがあります。
幼い頃より剣を振るい続けてきた総司が、刀すら持てなくなった力ない己の腕をどんな思いで見つめていたでしょう。
実際に沖田総司が三段突きを使って誰かを倒したとされる史料は、残念ながら残ってはいません。
そこで、フィクションではありますが新撰組を描いた小説として非常に有名な、作家・司馬遼太郎氏による「新撰組血風録」の一節から、沖田総司の三段突きについての記述を抜粋し、まとめとさせていただきます。
沖田の突きと言えば非常な難剣で、壬生の道場でも、隊士のなかで受けとめる者がいなかった。
まず青眼から刃をキラリと左横に寝かせる。どん、と足を鳴らして踏みこんだときには腕は伸びきり刀は間合いを衝いて相手を串刺しにした。沖田の突きは、三段といわれた。たとえ相手がその初動の衝きを払いのけても、沖田の突きは終了せず、そのまま、さらに突き、瞬息、引く。さらに突いた。この動作が一挙動にみえるほど速かった。この突きで、つぎつぎに相手は斃された。