がむしゃらな熱い漢!?新撰組二番隊率いる永倉新八の性格とは
新撰組の初期メンバーであり、明治を生き延びた、新撰組2番隊組長永倉新八。
後半生には、新撰組の多くを後世に伝え残し、亡くなった隊士たちの弔いや建碑などの活動に貢献した人物です。
今回は、そんな永倉新八の性格について、検証してみたいと思います。
あだ名は「がむしん」
北辰一刀流を修めた永倉新八は剣術に優れ、剣豪の多い新撰組の中でも、沖田総司と並び1、2の腕前をもっていたとされます。
がむしゃらな性格で、がむしゃらな新八=「がむしん」とのあだ名がありました。
1863年の京を震撼させた有名な池田屋事件の際も、近藤勇・沖田総司・藤堂平助らと四人で、先発隊として斬り込みました。
死闘のおり、一人の敵を倒したのち沖田総司は昏倒、藤堂平助も額を割られ裏庭で戦闘不能になってしまいます。それでも、別動隊の土方らが駆けつけるまで、近藤勇と2人必死に戦って、相手の浪士たちを圧倒していきます。
戦いの途中、何だか刀が持ちにくく、よく見ると左親指にケガをしていたそう。縫合するほどの大ケガでしたが、本人は「戦いの最中は夢中で痛みは感じなかった」というなど、まことに豪胆な面を見せています。
新撰組の骨子を作っていた天然理心流の試衛館道場の食客として、近藤勇や土方歳三、沖田総司ら門弟と共に過ごしてきた永倉にとって、京に上り新撰組の名を賜ったあたりから佐幕一辺倒へと変貌していく組織と近藤勇に対して、忸怩たる思いを持っていったようです。
永倉新八は、原田左之助、斎藤一らと共に、近藤勇の傲慢を箇条書きにし会津藩に訴えたといいます。
それは非行五カ条とも呼ばれ「局長として認めるはするが、家来ではなく、同志である」との旨をつづっていたとされます。会津藩が内々に処理したのか、現存はしていません。
後に永倉は、「蛮骨をもってならしただけおうおうにしてわがまま」と芹沢鴨一派を粛正して以降の近藤勇の専横ぶりを苦々しく思っていた様子を書き残しています。
多くを語った永倉新八
最期まで新撰組として戦った斎藤一が、戊辰戦争終結後も会津藩士として生き延びながらも、多くを語らなかったのとは反対照的に、永倉新八は、生きた新撰組の姿を多く後世に伝えてくれています。朝敵の汚名を着たまま亡くなっていった隊士たちの建碑に積極的に貢献し、名誉の回復に努めました。
「新撰組顛末記」(談話形式)、「浪士文久報国記事」など、リアルな当事者目線の新撰組を書き残し、子孫に伝わるエピソードや回顧録なども多く、彼のおかげで、ずいぶんと新撰組の本当の姿が分かるように研究されています。
とはいえ、じつは戦った敵の数をちょっと盛っちゃったり、また聞きの情報もあったりして、100%全てが真実、とは言い切れないようです。
近藤勇とは対立することも多く、鳥羽伏見・甲州の戦いでの敗走のあと、朋友原田左之助と共に新撰組を途中で離隊、江戸で靖兵隊を組織しています。
しかし、時は流れ、明治27年。
当時55歳の永倉新八は日清戦争での抜刀隊募集に志願するも、お気持ちだけと断られ、「元新撰組の手を借りたとあっては薩摩の連中も面目丸つぶれと言うわけかい」と自嘲したといいます。
長生きした永倉にとって新撰組として駆け抜けた期間は短いものだったのかもしれませんが、その分濃く、誇りとしていたのだと分かるエピソードです。
また晩年には、新撰組時代に負った傷を「七ヵ所手負場所顕ス」として書き残し、酒に酔うとふんどし一枚になり「お国のために働いた体だ、わしの誇りだ」と銃創を叩いて声をあげていたといいます。
最後まで、剣術と共に
「竹刀の音を聞かないと飯が喉を通らない」
「自分は剣術以外の能はない」
と、晩年に至るまで剣術の指導や稽古に携わっていた永倉新八。
映画が好きで、よく孫と映画館に行っていたそうですが、出口の当たりでやくざ者7、8人に囲まれ小突かれたことがあったそうです。
怒った永倉は、鋭い眼力と一喝で相手をやくざ者を退散させたといいます。
幕末の京を震撼させた最強武装集団新撰組の、剣師範の永倉新八からしてみればそれくらいなんともない事なのでしょう。
やくざ者にとっては相手が悪すぎましたね。
明治期になると松前藩出身の永倉は、北海道小樽に住んでいましたが、東北帝国大学農科大学(現:北海道大学)の剣道部員が永倉の噂を聞きつけ、指導を乞いました。
家族は高齢を理由に止めましたが、「型だけの指導だから」と、要請に応え大学に向かいました。しかし、やはり腰を痛め馬車で送られて帰ってきたことがあったそうです。
これらのエピソードは親族の中では語り草になっているらしく、老いてなお血気盛んな「がむしん」ぷりが垣間見えます。
永倉新八は、大正4年1月5日に、病により77年の激動の人生を終えました。
奇しくも、同じ年の9月に東京で同じく新撰組の生き残りである斎藤一も亡くなっています。