三方ヶ原の戦いで負けた徳川家康が描かせた肖像画の意味が深い!
失敗を教訓にとはよく言いますが、それって簡単なことではありませんよね。
できることなら失敗なんて思い出したくありませんし…それが大きな失敗であるならなおさらです。
そこで失敗と向き合える人は、きっと人間的に強く、大きな人なのでしょう。それを糧にジャンプアップできる人は、もっとすごい人なのだと思います。
だからこそ、徳川家康は天下を取れたのではないかと思うのです。
彼は、三方ヶ原の戦いで武田信玄にこてんぱんにやられましたが、その後、見事に天下人となりました。
その陰には、彼が敗戦後に描かせた肖像画があるというのですが、それはいったいどんなものなのでしょう。
家康の肖像画にまつわる話について、今回は紹介していきます。
三方ヶ原の戦いで敗れ、肖像画を描かせた目的
1572年(元亀3年)、三方ヶ原の戦いで武田信玄に手痛い敗戦をした家康は、浜松城へと逃げ帰りました。
その際に描かせたというのが、通称「顰像(しかみぞう)」というこの肖像画です(正式には「徳川家康三方ヶ原戦役画像」)。
顰とはしかめっ面の意で、確かにその絵の家康は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべています。
これが描かれた目的は、敗戦を自らの戒めとするためだったと言われています。
血気に逸ったがゆえに敵の誘いに乗り打って出たために、結果として多くの兵や家臣を失ってしまったことで、家康は軍略の重要さというものを自戒したのです。
そして、この絵を常に傍に置き、肌身離さなかったと伝わっています。
敗戦直後に絵を描かせる余裕なんかあるの!?
しかし、敗戦直後のゴタゴタの中で、肖像画などを描かせる余裕などあったのかが疑問点ですよね。
この時の家康は空城計(くうじょうのけい)を用いて、武田軍に心理戦を挑んでいました。
空城計とは、あえて自分の陣に敵を進入させることで敵の警戒心を煽るというものです。
家康は、大手門を開き、かがり火を焚いて太鼓をたたかせました。結局、武田軍はそれ以上攻撃してこず、計略は成功したのです。
こうした作戦の間に描けなくもなかったかもしれませんが、正直なところどのタイミングで描かせたものかは不明となっています。
一方、後年描かせたものであるという説もあります。
名古屋にある徳川美術館によると、この顰像は1780年、当時の尾張徳川家当主:徳川宗睦(とくがわむねちか)に輿入れした紀伊徳川家の従姫(よりひめ)が、嫁入り道具のひとつとして持ってきたものだといいます。
表現方法が江戸時代のもののようであり、このしかめっ面は、当時見られた仏教の怒りの表情ではないかというのです。
また、徳川美術館創設者である尾張徳川家第19代徳川義親(とくがわよしちか)が、地元の新聞で、顰像は尾張家初代の徳川義直(よしなお)が父:家康の苦労を忘れず伝えるために描かせたものなのだと話しています。
だとすると、三方ヶ原の戦いの直後には顰像は存在しなかったことになります。
まとめ
結局のところ、真実がどうなのかということはいまだにはっきりしていません。
しかし、家康の没後に描かれたというよりも、敗戦直後に描かせた方が、ロマンがあると思いませんか?
自分の決して格好良くない姿を常に傍に置き、虎視眈々と天下をうかがっていた家康の姿の方が、個人的にはとてもしっくりくるのです。