猛将 本多忠勝の三方ヶ原の戦いでの奮戦ぶりに迫る!
勝ち戦の中での功労者はかっこいいですが、敗戦の中で孤軍奮闘した人物により魅力を感じるのは私だけでしょうか。
徳川四天王として勇名を馳せ、豊臣秀吉には「東に本多忠勝、西に立花宗茂(たちばなむねしげ)」と称賛された勇将:本多忠勝。
家康に従い苦楽を共にした彼は、もちろん、あの大敗に終わった三方ヶ原の戦いにも参加していました。
相手は当時最強をうたわれた武田軍。
無双の勇将は、厳しい戦いの中でどのような働きをしたのでしょうか…!?
三方ヶ原の戦いでの本多忠勝の記録
三方ヶ原の戦いは、1572年(元亀3年)12月に起こりました。
武田信玄の西上作戦の過程において起こった戦いで、浜松城に籠っていた家康たちの眼前を通過しようとした武田軍に、まだ若かった家康が打って出たというわけです。
家康は鶴翼(かくよく)の陣というV字形の陣形を取り、忠勝はその左翼に配置されていました。
対する武田軍は魚鱗の陣という中央が張り出し両翼が後退した陣形でした。
兵力は諸説ありますが、徳川軍が1万1,000~2万8,000人に対して、武田軍は2万7,000~4万3,000人とも言われており、戦術面でも戦国時代随一の戦上手で知られる武田信玄には到底かなわず、たちまち家康軍は敗走します。
多くの徳川方の重臣が戦死し、戦死者の中には、忠勝の叔父:本多忠真も含まれていました。
そんな時、忠勝はというと、敗走する軍の中にあって奮戦し、彼のおかげで家康が命を落とさずに済んだとも言われています。
また、敗戦の後に一矢報いようと徳川方が仕掛けた夜襲(犀ヶ崖の戦い/さいががけ)でも活躍したと伝えられています。
武田方の猛将:山県昌景との戦い
武田方には数多くの優秀な武将がいましたが、その中でも武名の誉れ高い人物が、武田四天王のひとり:山県昌景(やまがたまさかげ)です。
彼もまた、三方ヶ原の戦いに参加していました。
武田氏の軍学書「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」によれば、忠勝が山県隊に攻め込んだところを、武田勝頼が山県の助けに加わったという描写があります。
彼ら猛将2人の直接対決が起きたかは不明なところではありますが、戦国時代を代表する猛将同士の戦いがあったかなと考えるとロマンがありますね。
三方ヶ原の前哨戦・一言坂(ひとことざか)の戦い
忠勝と昌景が対戦したと思われる戦いがもうひとつあります。それが、一言坂の戦いです。
武田方への偵察隊として派遣された忠勝と内藤信成(ないとうのぶなり)は、相手と遭遇し戦いとなります。退却する徳川方はあっという間に武田方に追いつかれてしまいます。
そこで、忠勝は大久保忠佐(おおくぼただすけ)と共に殿をつとめ、凄まじい奮闘ぶりで撤退をサポートすることに成功しました。
おそらく、ここにも昌景は参戦していたと思われます。
まとめ
一言坂の戦いで忠勝と直接対決した小杉左近(こすぎさこん)は、彼の奮戦ぶりに感嘆し、狂歌を詠みました。
「家康に 過ぎたるものが2つあり 唐(から)の頭(かしら)に本多平八」(唐の頭:ヤクの毛を使った兜)
家康にはもったいないほどだと言われた忠勝ですが、確かに若気の至り的な行動が多かった当時の家康には、もったいない勇将だったかもしれません。
ちなみに、似たような狂歌では「治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」というのもありますね。