小早川秀秋の呼称 「金吾(きんご)中納言」ってどういう意味!?
戦国大名と朝廷の官位って、あまり結びつくイメージが無いような気がしませんか?
大名たちが衣冠束帯に身を包んで参内している図って、なんだか奇妙な感じがします。
しかし、有力な大名になると皆、官位を与えられていたんですよね。朝廷と武家との力が逆転した証拠です。
困ってしまうのは、同じ官位に複数の人がいるとややこしくなってしまうことです。
豊臣氏が全盛の頃、中納言が複数いたことがあります。その中のひとり関ヶ原の戦いでも有名な小早川秀秋は、「金吾(きんご)中納言」と呼ばれていました。
しかし、それって何を意味しているのでしょうか?他にいた中納言はそんな呼ばれることはあったのでしょうか。
気になることは、検証してみましょう!
金吾中納言の「金吾」の意味
秀秋は「金吾中納言」と呼ばれていましたが、「金吾」とはいったい何のことなのでしょう。
これは官職を指し、左衛門督(さえもんのかみ)の唐名である「執金吾(しつきんご)」から来ています。
執金吾は武官の官職で、後漢の光武帝が若かりし日に「仕官するなら執金吾」と言ったほど、当時の人々にとっては憧れの官職でした。
では、執金吾の日本バージョンである左衛門督についてご紹介します。
左衛門督は、衛門府(えもんふ)に属する武官です。「督」は左右に各1人ずつ配置され、中納言や参議が兼任することがほとんどでした。鎌倉時代以降は、専ら武家に与えられる官職となりました。
当時、他に中納言の官位に就いていたのは誰?
秀秋と同じ頃、中納言の官職にあった人物は何人かいます(実際に秀秋が中納言となったときは、まだ羽柴秀俊を名乗っていましたが、ここでは秀秋と呼びます)。
年代順に見ていくと、
- 小早川秀秋(1592年)
- 徳川秀忠(1592年)
- 豊臣秀保(ひでやす・1592年)
- 上杉景勝(1594年)
- 宇喜多秀家(1594年)
- 毛利輝元(1595年)
と、たった4年の間に6人もの中納言が生まれています。
中納言の呼び分け方
これだけ多くの中納言がいると、単に中納言と呼ぶわけにはいきません。
そこで、秀秋を「金吾中納言」と呼んだように、他の中納言にも呼び名がありました。
大抵の場合は、領地にちなんだものでした。
- 徳川秀忠:江戸中納言
- 豊臣秀保:大和中納言
- 上杉景勝:越後中納言、会津中納言
- 宇喜多秀家:備前中納言
- 毛利輝元:安芸中納言
といった感じです。
もちろん秀秋にもこういった呼び名があり、筑前中納言や岡山中納言といったものが伝わっています。
しかし、金吾中納言の方がポピュラーであったようですね。
まとめ
6人も中納言がいるというのは、ちょっと多すぎるような気がしますが、実は後鳥羽院政の頃は定員10名だったそうで、これが定着していたのだそうです。
そして、15年以上参議を務めなければ、中納言にはなれないことになっていました。
しかし、豊臣秀吉が関白となった影響で、官位を与えることが容易になったというわけです。
武家が朝廷を圧倒した図が、ここにもあるのです。