戦国きってのカブキ者 ド派手な前田利家の兜に込められた意味とは
現在の石川県、加賀百万石を一代で築き上げたと言われる前田利家。
織田信長や豊臣秀吉の元で戦歴を重ねた前田利家は、その人柄から他の武将たちにも慕われ、調停役や交渉役を務めることも多かったと言います。
2002年の大河ドラマ「利家とまつ~加賀百万石物語~」では、利家役を唐沢寿明さんが好演されましたね。
今回はそんな、前田利家の兜について、ご紹介していきたいと思います。
やんちゃなカブキ者 前田利家
天文7年12月25日(1539年1月15日・諸説あり)、尾張の国荒子城主であった前田利春の四男として生まれた前田利家は、後に主となる豊臣秀吉や、やがて敵対することになる佐々成政らと共に、信長の元で小姓から勤め戦国武将としての薫陶を受けました。
若い頃の利家は、ケンカっ早く、変わった衣装や派手な得物を好むカブキ者と言われていました。
カブキ者といえば、あの有名なマンガ「花の慶次」の主人公、前田慶次郎も、利家の甥です。(カブキ者家系なのでしょうか・・・)
利家は戦闘時でもないのに、派手な長槍をもって「槍の又左、又左衛門」と呼ばれ恐れられていたとのこと。
信長親衛の直属精鋭部隊「母衣衆」の、赤母衣衆筆頭に抜擢され、大いに手腕を振るったと言います。
従妹のまつを娶ったのもこの頃です。
その後、主君織田信長の異母弟で身の回りの雑務などに当たっていた「拾阿弥」と争いになり、信長の目の前で斬殺、出奔という事件がありました。
柴田勝家や森可成らの嘆願によって処刑は免れたものの、出仕の停止を命じられ諸国を放浪する浪人となってしまします。
利家は何とか帰参をはたそうと、浪人の身ながら1560年の桶狭間の戦いに無断参戦して武功をあげますが許されず、翌年の森部の戦いで打ち取った首級を持参し、ようやく帰参が叶いました。
実はこの浪人時代に、利家は経済の大切さを学んだと言われ、その理念はやがて加賀藩100万石を築く骨子となっていきます。
戦場にそびえる、圧倒的な存在感
そんなカブキ者前田利家の所用といわれる兜が、利家を祀る金沢尾山神社に所蔵されています。
天に高々とそびえるかのような、「長烏帽子形兜」、長烏帽子よりも小ぶりで実戦向きな「烏帽子形兜」です。
烏帽子とは平安以降、成人男性が正装時にかぶっていた帽子のことで、円柱を左右からつぶしたような烏帽子形兜はその形状の類似から、「鯰尾形兜」と混同されることもありますが、鯰尾形は両脇に目やヒレがあるのが特徴であり、一方の烏帽子形は鉢巻が巻かれたモチーフが多くなっています。
前田利家はこの烏帽子の形を好んだと言います。
たしかに、身長六尺、約182cmともいわれる(遺された着物の寸法から推測)利家が、このように高い兜をかぶった様子は、周りを圧倒し、有象無象の入り乱れる戦場においては他にない存在感を示したことは想像に難くありません。
また、尾山神社の境内には、金箔押熨斗烏帽子形兜の像が設置され、燦然と輝くその姿はおとずれる観光客の目を引いています。
戦を制す「勝ち虫」、前立てにまさかのトンボ
ムカデや毛虫など、昆虫をモチーフにした前立ては、「後ろに退かない」ことの象徴として、戦国武将に人気がありました。
前田利家所用と伝わる兜の中にも、昆虫、トンボの前立てがついているものがあります。
実はトンボ、蜻蛉には武将に好まれる有名なエピソードがあります。
雄略天皇(在位456年~479年ごろ)が、吉野に狩りに出かけたときのこと。
雄略天皇の腕を刺した虻をどこからともなくやってきた蜻蛉がくわえて飛び去ったという故事があり、そのことから、蜻蛉は強い虫、勝つ虫、勝虫という縁起の良い虫とされたということです。
農耕民族である日本人にとって、稲の害虫を食べてくれるトンボはなじみの深い昆虫です。
水中で過ごす幼虫時代はヤゴと呼ばれ、小魚やほかの虫を食べ、エサが無くなると共食いをして強いものが生き残ります。
また、成虫になってからは、自分よりも大きな獲物を掴んで飛ぶ、勇ましい姿が見られます。
トンボには、自分の体重分の獲物をたった30分で食べてしまうような旺盛な食欲があり、おどろかされます。
まさに「後ろに退かずして、敵を食う」として、戦での勝利へつながるイメージが定着しました。
こちらのトンボ、蜻蛉の前立てが付いた兜は、残念ながら現存はしておらず、前田家に伝わる史料がその存在を示しています。
豊かな加賀文化の礎を築く
晩年は、徳川家康らと共に五大老を務めるなど、豊臣政権になくてはならない人物となっていた前田利家ですが、秀吉の亡くなると、後を追うように病没しています。
その後、世は徳川の時代へーーー。
加賀藩の礎を築いた前田利家の理念は徳川時代には息子や子孫たちに受け継がれ、加賀の豊かな文化を盛り上げました。