豊臣秀吉の五大老の中でも、存在感がひときわ大きいのが前田利家と徳川家康です。
二人は対立関係にあったのでしょうか?ならばその勢力図は?
気になるところを調べていきましょう。
秀吉亡き後、前田利家と徳川家康の対立
秀吉亡き後、家康は法度を破り諸大名家との婚姻政策を進めました。利家はこれを是とせず家康を糾弾し、両者の関係は悪化します。
そして、諸将が利家のいる大坂城の前田屋敷と家康のいる伏見城の徳川屋敷に分かれて集結し、一触即発の騒ぎが起きてしまったのです。
しかし、ここでは和解が進められました。利家が家康のもとを訪れ、家康もこれに応じ、この場は収まったのです。
柳川藩の叢書で、浅川安和による「浅川聞書(あさかわききがき)」には、その後の逸話が収められています。かねてから病を患っていた利家が床に臥すと、家康は彼を見舞いました。そのとき、利家は抜身の太刀を布団の下に忍ばせていたというのです。
また、加賀藩に伝わる資料「利家公御夜話(異題:亜相公御夜話)」によると、家康のもとに向かう際、利家は息子の利長に、家康に約束を守らせるために行くが、うまくいかなければ家康を斬るし、自分が斬られたなら弔い合戦をしてほしいと言い残し伏見へ向かったと書かれているのです。
これを見ると、両者の関係がこの時点では良好でなかったことがわかります。この後すぐに利家は亡くなったため、これ以上の関係の悪化はありませんでした。ただ、利家という大きな「壁」が無くなったことで、家康はその勢力をあからさまに伸ばしていくことになります。
前田陣営、徳川陣営の武将たちの顔ぶれ
豊臣政権下においては、軍務を担う「武断派」と、政務メインの「文治派」という勢力がいました。この2つの勢力の対立が秀吉の死後に顕在化します。
武断派の主だった大名は加藤清正や福島正則、文治派は石田三成、大谷吉継、小西行長などでした。武断派は家康へ接近していくため、これがほぼ徳川陣営と考えることができます。
一方、文治派は豊臣家、豊臣秀頼への忠誠を第一にしているので、秀吉から秀頼を託された利家とは方向性は同じですから、前田寄り(もしくは前田陣営)と考えられます。
ただ、前述の諸将が徳川・前田それぞれの屋敷に集結した事態において、加藤清正は前田屋敷に向かっていますし、大谷吉継は徳川屋敷に参上しています。諸大名の思惑も揺れ動いていたようです。
もし、利家がもう少し長く生きていたら?
残念なことに、利家は秀吉が亡くなるときはすでに病を得ており、すぐに亡くなってしまいました。もし彼が生きていたなら、どうなっていたのでしょう。
少なくとも、もう少し長生きしていたならば、豊臣家は利家を中心に結束し、関ヶ原の戦いも起こらなかったと思われます。織田信長の家来として、秀吉と共に歩み、信頼絶大だった彼に対して、豊臣譜代の諸将は敬意を捧げるでしょうし、家康は手出しできなかったはずです。家康よりも長生きしていたなら、江戸幕府も開かれることはなかったかもしれません。
ただ、家康が何もせずにいたとは考えられない気もします。利家がもう少し長く生きていても家康より先に亡くなったなら、どうにかして政権を握っていたのではないかとも考えられます。
まとめ
家康が前田家を脅威とみなしていたのは確かで、利家の死後、家康は加賀征伐を検討しています。
しかし、利家の息子利長は母の芳春院(まつ)を人質に差し出したため、これが実現することはありませんでした。
諸将の尊敬を集めていたのは利家その人でしたので、この選択は家を存続させるためには仕方なかったのでしょうね。