豊臣政権の五大老の一人・前田利家と天下無双のカブキ者・前田慶次。
主君と家臣という関係にあった二人はあることをきっかけに別離してしまいます。
二人の間に何があったのでしょうか。
二人の関係とは?
二人が同じく「前田」を名乗っていることからわかるように、利家と慶次は親戚の関係にあります。
といっても血がつながっているわけではなく、慶次の養父が利家の長兄という関係です。
利家の長兄・利久には子がなかったため、妻の実家である滝川家から弟の娘婿として慶次を引き取り養子としたとか、慶次の実母が利久と再婚したとかいう説がありますが、何にしろ慶次と利家は叔父・甥の関係となりました。
しかも、利家の長兄の唯一の息子ということは、将来的には加賀百万石を受け継ぐ可能性もあったのです。
利家に仕える身となった慶次は、本能寺の変、小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに参加し、戦功を挙げていきました。
慶次、出奔
ところが慶次は1590年ごろ、前田家を出奔してしまいます。
その理由として、利家と仲たがいしたとか、利久が死去したことがきっかけとか、利家の嫡男・利長と仲が悪かったとか色々な理由がいわれています。
慶次はその後、剃髪して「穀蔵院飄戸斎」を名乗り、京都に滞在。古田織部ら多くの文化人と交流していたようです。
その間も大名などから仕官の話が多くあったそうですが、それを断り、1598年上杉家が越後から会津120万石に移封されたのをきっかけに、上杉家の家臣・直江兼次の与力として1000石が与えられました。
出奔時の水風呂事件
カブキ者として知られる慶次には出奔する時についても派手な逸話が残されています。
慶次の人を小馬鹿にする癖を、利家は日ごろから度々注意していましたが、慶次はこれを素直に聞き入れることはしていませんでした。
ところがある日、慶次から「これまでは心配をかけてしまい申し訳ない。これからは心を入れ替えて真面目にいきるつもりです。茶を一服もてなしたいので自宅にお越しください」と利家に申し入れます。
ようやく改心してくれたかと喜んで慶次の家を訪れた利家に、慶次は茶の前に風呂を勧めます。今日は寒かったのでそれはいい考えだと利家が衣を脱いで風呂に入ると、慶次は先に風呂に入っていて「いいお湯加減です」と言います。
利家はそれを聞き、湯船に入ると、それはお湯ではなく氷のように冷えた水風呂だったのです。
これには温厚な利家も激怒。供侍に慶次を連れてくるように命じた時にはすでに利家の愛馬・谷風に乗って去った後でした。
この話の出典は江戸時代後期の随筆集『翁草』であり、また後年に記された『常山紀談』で表現が脚色されていることから、このエピソード自体の信ぴょう性は低いと考えられています。
にしても、1590年といえば慶次57歳の老齢。いつまでも反抗期が続いているような話です。
そんなところが「天下無双」とまで言われる所以かもしれませんね。