相模の獅子こと北条氏康 傷を負いながらも前線で戦った北条家当主の武勇伝
北条氏3代目の当主であり、教養に富み、善政を敷いた名君であったと称される北条氏康。
実は彼には相模の獅子(相模の虎とも)というすごいあだ名があります。
なんとかっこいいあだ名なんでしょうか…いかにも強そうですね。このあだ名が示す通り、氏康は大変勇猛な武将だったと言われています。
今回はその武勇伝を紹介していきます。
相模の獅子の初陣
北条氏康の初陣は16歳の時。北条氏に奪われた江戸城奪還を狙う上杉朝興との戦いでした。
小沢原の戦と呼ばれるこの合戦を前にして、上杉朝興は一度ならず北条氏の軍を破っています。
初陣で相手にするにはちょっと荷が重いんじゃないでしょうか…と口出ししたくなる事ですが、なんと氏康は見事に朝興に打ち勝ってしまいます。
現在の神奈川県川崎市の麻生区には勝坂という坂がありますが、そこは戦に勝った氏康が「勝った、勝った」と喜び叫びながら坂を駆け上ったという言い伝えがあります。
現在の16歳よりも大人とはいえ、初めての勝利に喜んではしゃぎ回る姿は少年らしくて微笑ましいですね。ここから北条氏康の武勇伝がスタートします。
氏康傷は生涯の誇り
北条氏康は初陣から数えて一生の間に36回勝利し、とうとう一度も負ける事はなかったと言います。
北条家の嫡男、そして当主になっても自ら敵とぶつかり合い、全身に7箇所、顔に2箇所の傷があったといいます。この顔の傷が氏康傷と呼ばれる物です。
彼の戦いの中でも華々しく取り上げられるのは天文15年(1546年)に行われた河越夜戦。
実はこの戦いは日本三大奇襲としてあげられ、北条氏康と山内上杉氏、扇谷上杉氏、足利氏による連合軍の戦いとして記録されています。
この時、氏康は自軍を4つの隊に分け、一隊は待機させて残りの三隊を率いて敵陣に向かいました。そして、夜中を待ってから軽装の兵士達の先頭に立って上杉軍に突入します。真夜中の奇襲に上杉軍は大混乱、扇谷上杉軍では当主の朝定までもが討ち死にし、山内上杉氏も重臣を失う始末。
それでも暴れ足りない氏康が敵陣深く斬りこんでしまうので、状況を見守っていた家臣が法螺貝を吹かせて呼び戻したと言います。意気揚々と引き上げた氏康の顔面には氏康傷が……というのはあくまで想像ですが、戦の度に敵陣に斬りこんでいくような主君ですから、いつ傷を負ったっておかしくはありません。
正に傷は男の勲章とでも言うのでしょうか。
幼い頃には情けない一面も
生涯負けなしの猛将、北条氏康。
ですが、彼には12歳の時、家臣の武術の調練を見て恐ろしさのあまり気絶してしまったという逸話もあります。
自分の不甲斐なさに自害しようとまで恥じ入った氏康を、家臣は初めて見る物を怖いと思うのは当然だと慰めています。
そんな初々しい少年が後に相模の獅子と呼ばれるようになるのだから成長とは恐ろしい物です。
もしかしたら、彼の一番の強みは情けない記憶をバネにする負けん気の強さだったのかもしれませんね。