大河ドラマなどでは豊臣秀吉と前田利家は織田信長の家臣として友情を育んだ描写がよく見られます。
実際に豊臣秀吉は天下人となってからも、前田利家とは昔のような付き合いをしていたとも言われており、死の床においては秀頼の後見人を利家に頼んでいます。
この2人の出会いから友情を育んだ過程を見ていくことにしましょう。
織田信長の家臣として
前田利家は1551年、13歳の頃(生年については諸説あり、1538年生とされている)に織田信長に仕えます。
利家は4歳ほど年上だった信長の遊び相手とも、衆道(男色)関係にあったとも言われています。
一方、1554年頃から信長の小者として仕えだした秀吉。
信長の下で秀吉と利家は出会います。
本来ならば、身分の違う二人(利家は土豪の出で、秀吉は足軽または農民出身とされています)であり、身分差別が激しかったこの時代において、仲良くなることは珍しいですが、利家は信長の影響を受けてか身分の違いなどは気にせず秀吉との関係を深めていったと言われています。
秀吉も、信長のお気に入りの利家に取り入ろうと努力したのかもしれません。
家族ぐるみの関係
秀吉と利家は、清州時代や安土時代には隣、または向かいに住んでおり、秀吉の正室:高台院(北政所)と利家の正室:芳春院(まつ)も親しい間柄だったと伝わっています。
秀吉夫婦は利家夫婦の婚姻の際には仲人の役割を果たしたとされており、夫婦共々の付き合いをしていたことが伺えます。
また、芳春院は、秀吉の母:なか(大政所)とも仲が良く、なかの畑の手伝いをしたり、取れた野菜を芳春院になかが自ら届けることもありました。
さらに利家夫妻は、まだ1歳の四女:豪姫を、子どものいなかった秀吉夫妻の養女としました。
二人の交友関係
本能寺の変で2人が仕えていた織田信長が亡くなり、その信長を討った光秀を秀吉は山崎の戦いで打ち破ります。
その後、織田家重臣の間で行われた清須会議において、秀吉と柴田勝家が対立すると、柴田勝家の与力であったことから、利家は勝家に従うことになりました。
しかし、秀吉との友情もあり、両者の対立の狭間に置かれた利家は苦悩の日々を過ごしていたのではないでしょうか。
そんな利家は1583年、賤ヶ岳の戦いにおいて、5,000の兵を率いて柴田側として布陣。ですが、合戦の最中に突然撤退を行います。
これは勝家には恩義、秀吉には友情といった思いがある彼なりの行動だったと考えられています。
不仲になった時期も
ずっと仲良しだったように見える2人ですが、1595年に蒲生氏郷が死去、その相続をめぐって、利家は氏郷の子:鶴千代に相続させるよう秀吉に話を進めていましたが、これを秀吉は反故にしてしまいます。
これに怒った利家は大坂城への出仕を拒否し、秀吉と不和となりました。この時は芳春院が北政所の元に訪れ、とりなしをした結果、鶴千代に家督が相続され、秀吉と利家の関係も和解しました。
秀吉側近の大野治長は「利家は家康よりも官位も領国石高も下だが、彼は武勲の者であり、秀吉に信頼されているため、人望は利家のほうが遥かに大きい」と評しており、利家はその信頼から晩年の秀吉に意見できる数少ない人物であったとされています。
秀頼の後見人として
秀吉は利家を五大老の一人とし、秀頼の養育係・後見人としました。そして1598年8月18日、秀吉は利家らに秀頼の将来のことを再三頼み、生涯を閉じました。
秀吉は農民あがりということで、譜代の家臣がいなかったこともあり、縁故知縁を大事にしてきたので、旧知の利家のことは「律義者」と評しとても信頼していました。
また、妻同士も仲が良かったため、一番秀頼のことを頼みやすかったのではないでしょうか。
そして、秀吉は家康が将来、秀頼にとって危険な存在となることを案じていたため、それを抑えるために利家に家康に準じる地位を与えて、豊臣一族を補佐させる存在としました。
秀吉の死後、遺言に従い利家は秀頼に従って大坂城に入り、秀頼の後見人として実質的な大坂城の城主となりました。
しかし、その利家も1599年にこの世を去り、家康が支配する時代へとなっていくのです。