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鳥羽伏見の戦いの時、新撰組は何をしていた?

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戊辰戦争の初戦となった鳥羽伏見の戦い。

これに新撰組も旧幕府軍として参加しています。

新撰組はどんな活躍を見せたのでしょうか。

近藤勇の負傷

12月11日、旧幕府軍と共に大坂城に到着した新撰組は、まず伏見奉行所に駐屯することとなりました。

これは表面上では伏見方面の警備という名目でしたが、実際には旧幕府軍の前線拠点の確保という意味合いが強かったようです。

ところが19日、二条城に打ち合わせに出向いた新撰組局長・近藤勇が伏見奉行所への帰り道で銃撃に遭い、重傷を負ってしまいます。

襲撃したのは御陵衛士(高台寺党)の生き残り。1867年新撰組に暗殺された伊藤甲子太郎の復讐が目的でした。

これにより、副長・土方歳三が新撰組の指揮を執ることになったのです。

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刀と槍では…

1868年1月3日、鳥羽方面での銃声が聞こえると、伏見でも両軍の戦闘が開始しました。

当時の新撰組や会津藩の装備には薩長のような最新鋭の銃器はなく、刀や槍を中心とした白兵戦を行わざるを得ない状況にありました。

そのため、2番隊隊長・永倉新八らが唯一敵陣への斬り込みに成功したほかは、敵の銃砲火の前になすすべなく、伏見奉行所が炎上すると、退却を余儀なくされたのです。

この時、土方は「もはや刀と槍の時代ではない」と言ったとか。

幕末の京において攘夷派浪士たちを震撼させた新撰組の刃も、西洋の銃器と戦略の前ではその力を活かすことができなかったのでしょう。

しかし、その後も宇治川堤防あたりや八幡山の麓で果敢に抵抗しましたが、味方の寝返りなどに遭い、最後には将軍・徳川慶喜までもが江戸へ退却したことから、全軍は崩壊してしまいました。

鳥羽伏見後の新撰組

首脳部の解散命令を受け、新撰組は富士山丸に乗船して江戸へと引き上げました。

しかし、鳥羽伏見の戦いが始まる前は150~160名ほどいた新撰組隊士は、江戸で再び結集すると、わずか40数名になっていました。

記録によれば、鳥羽伏見の戦いで戦死したのは22名にのぼり、負傷者はその3倍もいた他、混乱の最中脱走した隊士もいたようです。

こうした中、新撰組は「甲州鎮撫隊」と名を改め、甲府城で再び薩長を中心とする官軍と戦闘を行いました。

しかし、これにも敗れた新撰組は、以後局長・近藤勇の逮捕や沖田総司の病死などを経て、土方歳三の五稜郭での戦死という形で幕を閉じることとなったのです。

刀の力を信じ、武士に憧れた新撰組が、刀の時代ではないと悟った鳥羽伏見の戦いこそ、新しい時代の幕開けだったのかもしれません。

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