流山で自首をした近藤勇 その最期と墓の場所とは
近藤勇は、多摩の天然理心流という田舎道場の道場主に過ぎませんでした。
身分も農民で武士からは大きな差別を受ける立場でした。そんな彼等が幕末の時流に乗り、武士として認められる為に徳川幕府を支えるべく奮戦したのは、当然の帰結だったのでしょう。
しかし、京都で多くの攘夷志士を斬った新撰組、そして近藤は憎まれ悲劇的な最後を迎えてしまいます。
徳川家康の神慮遠謀が新撰組を創設した?
近藤が生まれた多摩は、関東八州に含まれていて、徳川将軍のお膝元と呼ばれ、税金の安い土地でした。徳川家康は、元は北条氏が支配していた関東を治めるにあたり、北条氏の取った安い税金を維持し、その代わりに武芸に励んで、イザという時には徳川を助けるように申しつけました。
関東八州の人々は家康の配慮に感謝し武芸の練磨に励み、徳川幕府尊崇の念を300年間持ち続けます。近藤勇もそんな多摩の豪農の一人であり、彼にとって幕府を助けるという事は誰に教えられるでもない自然な事でした。或る意味新撰組は家康によって造られたと言えるかも知れません・・・
滅びゆく新撰組、その中で近藤勇は…
京都において、会津藩と共に、攘夷志士を取り締まっていた新撰組も1866年に幕府が第二次長州征伐に失敗した辺りから、没落の道を辿っていく事になります。
新撰組の参謀として、入れた伊東甲子太郎が、時勢を読み尊王を説いて新撰組の隊士を引き抜き、御陵衛士として独立した時には、近藤は表面上はこれを了承しました。
しかし、実際には「隊ヲ抜ケルを許サズ」の局中法度を理由にこれを粛清します。ですが、この粛清が近藤の人生に大きな影響を与える事になります。
念願の旗本になるも、時代は四民平等の明治へ
1867年、近藤は会津藩預かりの身分から正式に幕臣に取り立てられます。身分はお目見得以上で、将軍拝謁が許される旗本クラスでした。
これは、農民出身の劣等感を背負った近藤の念願が叶った瞬間でした。大はしゃぎの近藤でしたが、時代は武士を必要としない四民平等の明治へと確実に舵を切っていたのです。
鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍は、船で江戸に脱出、その中には、旗本の近藤勇が率いる新撰組も含まれていました。
しかし、江戸城を預かる陸軍総裁の勝海舟は新撰組が江戸に入る事で江戸無血開城の策謀がご破算になる事を恐れて近藤を呼び寄せ、甲陽鎮撫隊を組織して甲府城に入って新政府軍に備えよと命令し新撰組を江戸から追い払います。
甲陽鎮撫隊の総大将、しかし敗戦で夢は潰える
勝の策謀とは知らず、近藤は「自分が甲府城に入れば城持ち大名になれる」と有頂天になります。そして、300名の甲陽鎮撫隊を率いる途上で、大名らしく振舞い、知己に挨拶するなど進軍は遅れに遅れます。
副将である土方歳三は近藤に速やかな進軍を求めますが、近藤は大丈夫だと余裕綽々で聴き入れず、結果として甲府城は3000名の新政府軍に占拠されてしまうのです。
事実を知った近藤は大慌てし、土方歳三は千葉まで出向して、幕府旗本で組織された部隊に援軍を要請しますが拒否されます。300名の甲陽鎮撫隊は10倍の新政府軍に恐れをなして脱走が続出し、人数は121名まで減少します。
近藤は「もうすぐ、会津藩の援軍が来る」と嘘を言い、甲州勝沼の戦いで新政府軍と激突しますが、甲陽鎮撫隊は、最初から戦況不利、大砲まで破壊されると総崩れになり、八王子まで敗走してから軍を解散しました。
千葉県流山で新政府軍に出頭を決意
それでも近藤は諦めず、今度は旧幕府歩兵を五兵衛新田で募集して再起を図ります。この時、方針の違いから、原田佐之助、長倉新八が隊を離脱していきました。
甲陽鎮撫隊は、その後も転戦しますが、千葉県の流山で公卿の岩倉具定が率いる東山道軍に屯所を包囲されてしまいます。
ここで、近藤は観念し、土方に新政府軍に出頭する事を告げるのです。土方は「まだ、脱出して東北に進み会津や幕府軍と合流すれば勝機はある、諦めるな」と説得します。
しかし、近藤は「歳、、俺は疲れたよ」と呟いて出頭を決意し、ここで、仲間であり親友だった土方と別れるのです。
屈辱の斬首そして、さらし首の最後
近藤は、本名を名乗らず、大久保大和という変名で出頭します。あるいは、見破られず死刑を免れるかも知れないという希望もあったのでしょうか。
しかし、この東山道軍には、かつて近藤が粛清した伊東甲子太郎のグループであった元隊士、加納鷲雄がいて正体を見破られます。
結果、近藤の身柄は中仙道の板橋宿に送られ、ここで斬首になりました。切断された近藤の首はさらに京都に送られ三条河原で曝し首になります。
近藤の遺体の行方は
近藤の遺体は、東本願寺が引き受け埋葬したと言われますが、近藤の同志が奪還して愛知県、岡崎市の法蔵寺に埋葬したという話。
また、同志の長倉新八が三鷹市の龍源寺に埋葬したという話や、土方歳三が、福島県会津若松市の天寧寺に遺体の一部を葬ったというような話が伝わっているようです。