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近藤勇に子孫はいる!?

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新撰組局長・近藤勇。副長・土方歳三は多くの芸妓に慕われたとされる色男として知られていますが、局長である近藤はどうだったのでしょうか。

ここでは彼の女性関係と子どもたちについて迫りたいと思います。

美人じゃなかった妻・つね

近藤の正妻・つねは1837年、清水徳川家の家臣・松井八十五郎の長女として生まれました。

慶喜の生家としても知られる一橋家で祐筆として文章を書く仕事をしていましたが、1860年、24歳の時に天然理心流の次期四代目となっていた近藤と見合い結婚により結ばれています。

そんなつねは顔に痘痕があったとか兎唇であったとかいわれており、正直美人とはいいがたい外見だったといわれています。

近藤には「美人は貞淑を欠くのが世の常である。しかし、醜女は自分が人並みでないことを知っているから、真心を持って夫に仕え、常に控えめで居るものだ。自分が殊更に醜女を選んだのは、この婦徳ある女性を得たいと願ったからだ」と語ったとされ、その点では理想の女性だったのかもしれませんね。

近藤は鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸へ帰還することになった時「京都へ行く時はもう二度と妻子には会うまいと決心していたものを、今こうして帰る事になって妻子に会えるかと思うと嬉しいような気持ちです。まったくお恥ずかしい。」と語っていたといいます。また、この時に土産として銀の指輪をつねへ渡したとか。

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拳が口に入ったとか暇があれば刀の話ばかりしていたとかいう豪快なイメージの近藤ですが、妻の前だけで見せる顔があったのかと思うと微笑ましく思います。

東京都町田にある小島資料館には隊士・沖田総司の年賀状などとともに、つねにより背中にドクロの刺繍がほどこされた道着が収められており、なんだかユーモラスなその顔を見ていると、針仕事に長けていたとまでは言えないまでも、つねなりに近藤を支えようとしていた姿勢がみえるようです。

つねは近藤が自分を美人ではないと思っていたことを知っていたといわれていますが、近藤が亡くなった後も愛を貫き、周囲の人たちの勧める見合いを断り続けたそうです。また、見合いの話が強引に進められると「二夫には仕えません」と言い、自分の首に刀を刺して自殺を図ったともいわれています。

結婚して3年で上洛してしまい、その後も江戸に帰ってきた数回しか会うことはできませんでしたが、近藤の期待通りつねは「貞淑」に家庭を守っていたのです。

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近藤の妾

こうした一方で金銭的な余裕ができると、近藤も京都の遊女たちを囲っていたようです。

島原木津屋の遊女・金太夫

京都でも五本の指に入るほどの美女。年齢二十三歳。

上七軒の芸妓・植野

それほど美人ではなかったらしいのですが、近藤が身請けして植野の実父のところで遊ばせていたとか。

島原の「若太夫」・美雪太夫

金沢生まれの背の高い美人。身請けされて京都池田屋近くに囲われていたところ新撰組の取り締まりを受けて近藤と知り合ったといわれています。

身請けして京都醒ヶ井木津屋橋下るの休息所に囲っていました。美雪太夫はここで妹・お孝と二人で住んでいましたが、美雪太夫がリュウマチの治療の為外出している間に近藤が妹・お孝とも関係を持ったことに怒り、二百両の手切れ金を貰って島原に茶屋を買って暮らしたといわれています。

大坂曽根崎新地の御幸太夫

美雪太夫の妹・お孝。姉の美雪太夫とともに身請けされましたが、姉の留守の間に近藤と関係を持ってしまい子を宿しました。

京都三本木の芸妓・駒野

近藤に身請けされて後に、男の子を産んでいます。近藤が処刑され、さらし首になった時には、辻講釈師に金を与えて近藤の京都での功績や追悼の一席を口演させたそうです。

近藤の子孫

近藤には正妻・つねと3人の妾の間に4人の子どもをもうけています。

正妻・つねとの間にできた娘たまは、明治9年(1876)に許嫁の宮川勇五郎と結婚しています。勇五郎は近藤姓を継ぎ近藤勇五郎を名乗りました。たまは勇五郎との間に長男・久太郎を産みましたが、25歳の若さで亡くなっており、さらにその久太郎も1905年に日露戦争で戦死、近藤の直系の子孫は絶えています。

京都三本木の芸妓・駒野との間にできた男子は5歳までは里子に出され、その後7歳までは駒野の元で育てられましたが人の薦めで東福寺に預けられ、仏弟子となったといわれています。僧侶となってからは近藤勇の菩提を弔ったそうです。

近藤の子どもの中で最も壮絶な人生を送ったのが、お孝の子・お勇です。新撰組が江戸へ去った後、お孝はお勇と一緒に姉のお茶屋の世話になりました。お茶屋を畳んだ後は、お勇を姉に預け神戸の開港地へ働きに出かけたのですが、お孝がシンガポールに出稼ぎに出ている間に、美雪太夫との諍いでお勇は家を出て、馬関で芸妓をしていたそうです。

その時に伊藤博文や井上馨など政府官僚の贔屓を受けていたとか。世間は狭いというか、不思議な因果です。お勇は朝鮮人貿易商と結婚して三人の子供をもうけたと伝えられています。

近藤勇の生家である宮川家は現在に至るまで都内で農家を営んでいるそうで、子孫で勇武館を主催する宮川清蔵は近藤が4代宗家となった天然理心流の9代宗家となっています。

結局

『忠臣蔵』の大石内蔵助を尊敬し『三国志」の関羽に憧れた武道一筋の男、と思っていましたが、やはり女性関係は派手だったようですね。それほどまでに新撰組が京都でも人気があったのか、それともそれほどまでに金銭的にもうかる仕事だったのか。

しかしながら、身請けも相当なお金が必要だったはず。それにも関わらず、遊郭で遊ぶだけでなく身請けして自由にしてあげたことを考えると、ただの女好きというわけではない!と近藤の肩を持ちたくなります。

妻のつねも近藤が遊びたくて芸妓の身請けをしているわけではないと思っていたからこそ、近藤亡き後も未亡人として貫き通したのではないでしょうか。

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