新撰組局長 近藤勇が処刑されなくてはならなかった理由とは!?
長い江戸時代の終わりに、幕府と運命を共にした武士達が大勢いました。
新撰組局長、近藤勇もその一人です。
混乱と不安の幕末期に、力自慢の烏合の衆をまとめ上げたその人柄は、忠義に厚く大らかだったと言われています。
けれど、そんな彼の「長としての義」「徳川への忠」が、かえって彼の命を縮めてしまったともいわれています。
今回は、近藤勇が捕縛され、処刑されるまでの経緯を追ってみたいと思います。
新撰組との決別、流山
慶応三年(1867年)12月、徳川幕府はその長い歴史を閉じました。大政奉還から続く、世にいう『王政復古の大号令』です。
それを良しとしない幕府軍は抗戦の構えを見せ、ここに「戊辰戦争」が開戦されます。
新撰組は、幕府軍急先鋒の1つとして闘いに明け暮れることになりました。
しかし、戦況は思わしくありません。
鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いで、惨敗、敗走を余儀なくされた新撰組は、下総(千葉県)流山で薩摩の有馬藤太率いる東山道軍に囲まれてしまいます。
その時の新撰組は、勝海舟の進言により「甲陽鎮部隊」と名を変えていたこともあり、近藤勇は幕臣の「大久保大和」と名乗り出頭し、武器の差し出しと部隊の解散、そして自分大久保大和が本陣まで出頭することを約束して帰ってきました。
「周辺を警備しているだけで、官軍に歯むかうつもりはない」といえば、了解してくれるだろうと近藤は言ったといいます。あくまでも、幕臣:大久保大和で通すつもりだったのです。
しかし、その結果、近藤勇は新政府軍に捕縛されることになり、土方らの必死の助命嘆願にもかかわらず、斬首に処されてしまいました。
王政復古から流山での投降まで その時の近藤勇の心境とは
新撰組と袂を分かち御陵衛士を率いていた伊藤甲子太郎を暗殺したのは、王政復古の一か月前のこと。1867年11月18日の「油小路の変」です。
同年12月18日に、新撰組に恨みを抱く御陵衛士の残党に近藤勇は狙撃され、負傷してしまいます。命はとりとめたものの、それ以降刀を満足に振ることはできないほどの怪我だったといいます。
武士として、もう刀を握れない。近藤の失意はどれほどのものだったのでしょうか。
また、その負傷のせいで、翌年1月の鳥羽伏見の戦いに参加できませんでした。惨敗の報だけを養生先で聞いた近藤の悔しさは想像に難くありません。
その後の甲州勝沼の戦いでも、敗走。次第に近藤勇は追い詰められていきます。
さらに追い打ちをかけるように、多摩時代から共に戦った仲間の永倉新八・原田左之助が離隊します。新撰組最強を誇った沖田総司は労咳で療養中ですし、残った新撰組は44名しかいませんでした。
王政復古から、やがて流山で敵に包囲されるまでの間はたった四か月余り。
その間に近藤勇を襲った失意の数々、信じていた幕府の瓦解、夢見ていた武士としての矜持をも揺るがしかねない現状に、近藤勇は疲れてしまっていたのかもしれません。
あと、自分に残された「新撰組局長としてできること」はただ一つ。
自分が囮になり、朋友:土方歳三と部下たちをこの場から逃がすための時間稼ぎをする。そう、考えたとしても不思議はありません。
「幕臣大久保大和」では通用しなったワケ
流山で敵陣に投降した近藤勇ですが、近藤勇ではなく「大久保大和」だ、と言い張れば通用したかもしれません。
現代のように写真がないので、本人かどうかは実際に顔を知っているものが確認するしかなった時代です。
しかし、一時期は新撰組に所属し伊藤甲子太郎とともに離隊した、先述の御陵衛士残党の加納鷲雄らが薩摩軍にいたため、近藤勇であることが判明してしまいます。
出頭した「大久保大和」は、越谷を経由し板橋の東山道鎮撫総督府に送られます。
尋問に当たったのは、京時代煮え湯を飲まされ新撰組に強い恨みを抱く土佐軍の香川敬三らだったのが、近藤勇の処刑を決定付けました。
それは武士として、もっとも重く屈辱的な斬首刑という処刑の方法でした。
助命嘆願も叶わず、腹も切らせてもらえない・・・残された土方歳三らの悔しさはいかばかりだったでしょうか。
慶応四年(1868年)4月25日、近藤勇は、板橋にて斬首されました。
3日間の梟首(晒し首)のあと、京の三条河原、大阪の千日前にも晒されました。
その罪状は非常に理不尽で、一般の批評は同情的だったとされる一方、近藤勇の斬首を伝えられた徳川側では薄い反応だったといいます。
近藤勇の首の行方は
実は、その後の近藤勇の首の行方は、はっきりしたことが分かっておらず、このような説があります。
- 大阪で晒された後、東本願寺の嘆願で下げ渡され、東大谷に葬られた
- 新撰組隊士斎藤一が、三条河原から奪い返し愛知県の法蔵寺に埋葬を依頼した
- 近藤勇の従兄弟近藤金太郎が、山形県米沢市の高国寺に葬った
ほかにも、近藤勇の首塚と言われる史跡は多くあり、胴体を弔ったとされる場所も確定はされていません。
4月25日の近藤勇の命日には、いわれのある各地で、慰霊祭が行われています。
” 捕虜になっても義を重んじ、それを貫くために死を選ぶ。この死をもって主君から受けた恩に報いるために、快く刀をうけよう ”
そんな意味の辞世の句を残し、35歳で散った熱い魂は、今もなお誠の意味を私たちに問い続けています。