共に豊臣秀吉の子飼いから同じように武功をあげて出世してきた加藤清正と福島正則。
秀吉の死後は家康について、東軍側として石田三成率いる西軍側と戦ったところも同じです。
ですが、何故か後年の評価やイメージに違いがある二人。
どうしてこのような差がついてしまったのでしょうかを見ていくことにしましょう。
加藤清正と福島正則の人生
秀吉と親戚関係であった縁から、秀吉の小姓として仕えるようになった清正と正則。
彼らは、秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いにおいて、それぞれ敵将を倒すという武功をあげて「賤ヶ岳の七本槍」と称されるようになりました。
朝鮮出兵にも従軍し、そこから石田三成との対立を深めました。
そして、他の武断派の武将たちと共に、石田三成襲撃未遂事件を起こした二人は、徳川家康と昵懇となって、関ヶ原の戦いが発生した際には福島正則は関ヶ原で、加藤清正は九州で東軍側として参戦しました。
福島正則の評価
正則は、検地の結果を農民に公開し、実収に伴った年貢率を定めて負担を軽くしました。
慶長6年(1601年)の検地では安芸広島と備後鞆で49万8000石だったのに対し、元和5年(1619年)の検地では51万5000石まで増加させています。
また、領内の寺社の保護も積極的に行っており、慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復しました。
このように領主として行政面で結果を残している正則なのですが、「武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者」という評価が一般的です。
また、秀吉との血縁が強いことから、豊臣氏の「準一門」とされて、他の武将たちよりも別格扱いされていたにも関わらず、後世での知名度は同じ立場であったはずの加藤清正の方が高いとされています。
加藤清正の評価
清正は築城の名手で熊本城、八代城などの築城に携わった人物として知られています。
清正は天正16年(1588年)に、それまで有力大名が現れず国人が割拠し荒廃していた肥後国の19万5000石の領主に任命され、治水等による土木技術を使い、新田開発を行いました。
これは主に農産期に行われ、男女ともに仕事に駆り出されましたが、ちゃんと給金が支払われたため、皆喜んで協力したと伝わっています。
結果、肥後国はどんどん豊かになり、国人はみな清正を崇敬するようになりました。
また熱心な日蓮宗の信徒であった清正は、肥後に初めて法華信仰導入した人物として、教団的に尊崇されました。
現在でも熊本では「清正公(せいしょこ)さん」と慕われ、加藤家の菩提寺である本妙寺・浄池廟は清正信仰の中心地とされています。
そして、清正の命日(新暦7月23日~24日)には「頓写会(とんしゃえ)」と呼ばれる法要が行われ、多くの参拝客が訪れることでも有名です。
太閤記が2人の評価を決定付けた!?
2人共、両国の民のために善政をしいていた大名の様に見えますが、現代では加藤清正の方が評価が高い武将になってしまったのは何故なのでしょうか。
これは秀吉の生涯を綴った伝記である太閤記の影響があるとされています。
太閤記は漢の高祖劉邦の逸話や三国志演義を模倣した部分が多いと言われています。
太閤記の作者は秀吉=劉邦、清正=思慮分別に優れている関羽、正則=思慮が足りず乱暴者の張飛のように表しています。
また、清正と言えば「虎退治」が有名ですが、これは江戸時代に作られた『絵本太閤記』が出て以降に普及した話です。
実際に虎退治を行ったのは、黒田長政の家臣の林太郎右衛門と言われています。
さらに清正が名古屋城の石垣のうち、最も大きいものを運んだとされており、この石は「清正石」と呼ばれていますが、実際には清正は名古屋城の石普請には携わっていません。
実際に石垣の施工工事を行ったのは、黒田長政でこの大きい石を運んだのも林太郎右衛門と言われています。
何故、林太郎右衛門の実績が清正のものになったのかは、定かではありませんが、清正は地名や学校名にも使われるほどの知名度を誇っており、歴史ファンならずとも現代でも愛されている武将です。