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桂小五郎(木戸孝允)と桂太郎は親戚関係だった?

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桂小五郎(後の木戸孝允・1833~1877年)と第11,13,15代内閣総理大臣である桂太郎(1848~1913年)はともに長州藩の出身で、同じ桂姓ですが、血縁関係はあったのでしょうか。

二人の接点や関係を詳しく見ていこうと思います。

桂小五郎

桂小五郎は1833年、長州藩の藩医であった和田昌景の長男として生まれました。生まれた時の名前は和田小五郎と言いました。小五郎は先祖からとった名前で、5男という意味はありません。

しかし、長男ではあったものの、生来身体が弱く、長生きしないと思われており、2人いた姉に婿養子が入り、小五郎は8歳で家の向かいにあった桂家に養子に出されます。そこから桂小五郎と名乗るようになりました。

後に「木戸孝允」と名乗るようになったのは、「木戸」姓は第二次長州征討前に藩主の毛利敬親から賜ったものであり、「孝允」という名は桂家を継いだ時からの諱を、東京招魂社(現:靖国神社)を創建した時に、公的に使用するように決めたからです。

桂太郎

桂太郎は1848年に長州藩で、毛利家の庶流(本家または宗家より分かれた一族)であった桂家の嫡男として生まれました。大江広元(下級貴族で後に源頼朝の側近になり鎌倉幕府の初代別当となった人物)や桂元澄(戦国時代の武将)などの子孫にあたるそうです。

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桂氏の系譜と2人の関係

桂氏は元は毛利家の流れを引きます。本姓は大江家で、先述の大江広元の息子の季光が、父の所領のうち毛利庄を相続して毛利姓を名乗りました。

さらにその毛利季光の子孫が分家を興し、坂家をつくりました。その坂家の子孫である坂広澄は嫡男でありながら桂家を興しました。桂広澄と名を変えた広澄は毛利家本家に忠実に使え、広澄の息子の元澄は毛利元就に仕えました。桂家はその後も栄え、桂太郎などの子孫を輩出しました。小五郎が養子に入った桂家も、この桂家の血を引くので、桂太郎と桂小五郎は遠い親戚にあたります。

しかし、小五郎は桂家には養子として入ったので、桂家とは血縁関係にはありません。ですが、小五郎の生家である和田氏は毛利元就の子孫であるので、時代を遡れば桂家と同じく先祖は大江家となります。そういった意味では桂太郎と桂小五郎は遠い遠い血縁関係にあると言えなくもないといった感じでしょうか。

By: ume-y

松下村塾と二人の繋がり

桂小五郎(木戸孝允)は松下村塾の塾生ではなかったのですが、1857年に塾の塾頭を継いだ吉田松陰が明倫館に務めていた頃に教えを受けています。桂太郎は松陰が刑死した時、まだ数え年で13歳だったので、塾生にはなれなかったそうですが、太郎の叔父が松下村塾のスポンサーをしていたそうです。

そして、この太郎の叔父は小五郎と仲良くしていたので、小五郎は太郎のことも目にかけていたそうです。

明治維新後、桂太郎はドイツに留学しましたが、私費留学だったため現地での生活は困窮を極めたそうです。そんな時にヨーロッパ視察のためドイツにやってきた木戸(小五郎)の下を訪ねて官費留学への切り替えを要請したそうです。太郎も自身が駐在武官となってドイツに赴任した時には毎月のように「木戸尊大人様閣下」という宛名で木戸に手紙を書き、珍しいものが手に入ると木戸夫人宛に送ったそうです。

この二人は出会うべくして出会ったという感じで何か運命的なもので繋がっていたのでしょうね。

Sakura

投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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