木戸孝允の果たした功績とは?
尊皇攘夷を第一線で牽引する存在だった長州藩における中心人物であった木戸孝允が維新志士として明治維新に果たした功績は計り知れないものがあることは疑いない事実です。
さらに彼は維新後も明治新政府内で政治家としてその才能を遺憾なく発揮しています。
ここでは、維新志士としての功績、明治新政府での功績をみていきましょう。
維新志士として挑んだ薩長同盟締結
維新志士・木戸の第一の功績として欠かすことができないのは薩長同盟締結でしょう。
土佐藩出身の坂本龍馬が仲介をしたことに注目が集まりがちですが、決して相まみえることのできないと思われていた薩摩との同盟実現の背景には木戸の人柄と才覚がありました。
何より、薩摩藩・大久保利通は簡単に他人を認めるタイプではなかったといわれていますが、そんな彼も認めるところだったのが木戸だったのです。
薩長同盟締結の会談に同席した品川弥二郎は、木戸が薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通を前にこれまでの薩摩藩の背信行為を正々堂々と叱責したことに、手に汗握るほど心配したと語っています。
しかし、この堂々たる姿勢に西郷は大変感動したといわれています。
また、締結した6カ条に及ぶ同盟が反故となることを心配した木戸は、仲介役を務めた坂本龍馬に締結内容を書いて送り、その紙背に奥書をするよう求めています。
もちろんその後薩摩が同盟を破るようなことはありませんでしたが、思慮深い性格の木戸だったからこそ、この同盟を確固たるものにすることができたのでしょう。
明治新政府の政治家として
五箇条の御誓文の起草
1868年3月14日、明治政府の基本方針である五箇条の御誓文を天皇が天地神明に誓う形で示されました。
戊辰戦争が未だ終結しない中で発布されたこの「誓」は木戸孝允の発案でした。
木戸は由利公正が起案し、福岡孝弟が修正した五箇条に加筆・修正を加えて提出しました。
その修正点を見ると彼の果たした功績が小さなものではなかったことがわかると私は思います。
彼が修正した点は以下2点です。
- 「列侯会議を興し」を「広く会議を興し」に修正
- 「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」を加筆
こうして見ると木戸は江戸時代まで脈々と受け継がれてきた封建制度その他の慣習を否定し新しい秩序を模索していたことがわかると思います。
特に「陋習」という言葉は「悪い習慣」を意味し、木戸がこれまでの身分秩序などに対し良い感情を抱いていなかったことがわかります。
後に内閣総理大臣も務めた肥前藩出身・大隈重信は木戸が薩長の派閥を嫌い、
「もし二藩の人をして跋扈させるならば、幕府の執政と異なったことはない。既に300藩を廃して四民平等をなした以上は、教育を進めて人文を開き、もって立憲国にしなければならない」
と常々語っていたと伝えています。
実際には明治政府で薩長閥による専横があったのですが、私は木戸のこうした「旧来の陋習」を打ち破りたいという考えが明治政府の基本方針として示されたことに一つ重要な功績があると思います。
また、この五箇条の御誓文が新政の折々に掲げられたことを考えると、明治期の国のあり方に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。
版籍奉還、廃藩置県の断行
版籍奉還、廃藩置県は木戸が新政権の発足直後から主張し、尽力した分野です。
版籍奉還は「版=土地と籍=人を天皇に還す」というもので、奉還後は藩主が知藩事に任命されるという点を考えるとあくまで形式的なものであったと考えられます。
しかし、その実行においては新政府内部から疑問や批判が相次ぎ、木戸自身も疑惑や誹謗を受けたといいます。
関ケ原の戦いの雪辱を晴らし、これからは長州藩が国を主導するんだと考えていた長州藩士たちからすると、中央で木戸ばかりが重用されることが妬ましかったのかもしれません。
その上、土地を天皇に、などと言えば長州藩をないがしろにしているという批判がでるのも当然の流れでした。
それでも木戸は世界各国と並立するためには「至正至公」の精神に基いて版籍奉還を実現することを急務と考え、出身藩である長州藩主・毛利敬親を説得しています。
敬親は「そうせい侯」とあだ名され暗愚であったともいわれていますが、木戸が版籍奉還を相談しに行った際に、「これほどの変革を行なうには、その時機を見計らうことが大事」と助言したといいます。
木戸はこの時藩主に深い敬意をいだいたそうです。
結果として大きな暴動もなく実行することができたのも、1の条件から32の結果を考えることができるといわれた木戸がいてこそだったのでしょう。

By: Toshihiro Gamo
明治政府の根底にある木戸の功績
木戸の功績は語り尽くせないほどたくさんあります。表には木戸の名前が出てこなくてもその根底や前提を作り上げたのは木戸だったりするのです。それは廃藩置県が地租改正や徴兵令、学制といった明治政府の基本政策の前提となっていることからもわかります。
木戸という人物は時に人間関係で板挟みになり体や心を壊すこともあったようですが、自分の理想の実現に尽力し、決して妥協しない、やり通すその熱意は人並みならぬものがあったといいます。
木戸の開明的な姿勢と思慮深い性格、他を魅了する人柄があったからこそ、これだけの大きな変革を日本で実現させることができたのです。