長州藩の維新志士として知らない人はいない桂小五郎と高杉晋作。
二人のどちらかが欠けていても明治維新の成功はなかったでしょう。
蛤御門の変(禁門の変)の後の幕府において最大のお尋ね者となったのもこの二人でした。
二人は互いをどのように思っていたのでしょうか。二人の関係とは?
武の高杉、智の桂
高杉晋作といえば奇兵隊を組織したことで知られています。
功山寺挙兵では奇兵隊などを率いて藩の実権を奪ってしまうなど、武においてはその才能を遺憾なく発揮した高杉でしたが、自らは政治に向いていないことを自覚していたようです。
そして、そんな高杉が混乱した長州をまとめあげ、藩政を担うことのできる人物として挙げたのが桂小五郎でした。
桂は蛤御門の変(禁門の変)の後、京都にて潜伏生活を行っていましたが、それも難しくなってくると但馬の出石に移り潜伏を続けていました。
高杉はそんな桂を探し求め、居場所を知っているとうわさの村田蔵六(後の大村益次郎)に手紙で尋ねています。
また、その翌月には自ら但馬に足を運び、桂を迎えに行くつもりだったこともわかっています(実際には桂の愛人・幾松が迎えに行っています)。
その後の桂は高杉の期待通り、藩の中心人物となり、軍事・政治の両面を指導するリーダーとなります。
対して、高杉は長州征伐において奇策縦横な活躍をみせ、長州に勝利をもたらしました。
二人は明治維新を推進する両輪として欠くことのできない存在となっていったのです。
高杉の信頼の裏にあった師・松陰の言葉
桂は松下村塾の塾生と間違えられやすいのですが、実際に桂が村塾で学んだことはなかったと考えられています。
しかし、それ以前に桂は山鹿流兵学の門人となり、藩校・明倫館を媒介に師弟関係にありました。
以来、桂は松陰を兄のように尊敬し、仕えたといわれています。
松陰は桂を高く評価し、信頼していたといわれており、1853年、松陰が計画していたロシア艦での密航計画を打ち明けた僅かな人物の中にも桂の名前があります。
松陰は江戸に出発する高杉にあてた手紙において、
「桂、赤川(淡水)は吾の重んずるところなり。無逸(吉田稔麿)、無窮(松浦亀太郎)は吾の愛するところなり。新知の杉蔵(入江杉蔵)は一見して心興せり」
と書いています。
松下村塾の三秀として名高い吉田稔麿以上に松陰は桂を重んじていたのです。
さらに松陰の幕府クーデター計画に桂が反対した際にも
「桂は厚情の人物なり。この節、同志と絶交せよと、桂の言なるをもって勉強してこれを守るなり」
と桂の助言に従うことを高杉への手紙に綴っています。
こうした敬愛する師・吉田松陰が桂に厚い信頼を寄せていたことも、高杉が桂を重んじることに強い影響を与えたものと考えられます。
高杉の重しとなった桂
高杉の行動は時に常軌を逸し、暴走気味だったことがあったのも事実でしょう。
外国公使の暗殺を計画したり、酒に溺れ放蕩三昧、脱藩、剃髪。。。もともと長州藩でも身分の高い上士出身で、しかも才能もあり松下村塾でも認められる存在だった高杉は時にわがままな行動をとってしまうことがありました。
しかし、こうした高杉が時に行き過ぎることのないよう、桂が影で手をまわし軌道修正を行ったことで、27という若さでこの世をさりながらも満足のいく人生を高杉は送ることができたのではないでしょうか。
長州にとっても高杉にとっても桂は欠かすことのできない人物っだったのです。