江藤新平が佐賀の乱に向かった理由とは 実は乱を起こす気はなかった!?
佐賀の乱とは、江藤新平らをリーダーとして1874年(明治7年)に起こった不平士族による明治政府に対する反乱です。
旧佐賀藩士を中心とした、初の大規模な反乱でした。江藤新平はなぜこのような乱に向かっていったのでしょうか。
江藤新平と佐賀の乱
江藤新平は佐賀藩士の長男として生まれました。明治政府において江藤新平は、大久保利通とともにこの二人だけが近代日本を創生できる逸材だと言われていました。
しかし、大久保利通とは犬猿の仲だったそうです。江藤新平は政府では民政や会計、財政、都市問題を担当し、江藤の献言で江戸は東京と改称されるほど、権限をもっていました。
その頃世の中には征韓論の風が吹き荒れていました。1873年(明治6年)この征韓論の政変で江藤新平は西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎らとともに下野し、郷里の佐賀に帰りました。
元々江藤は武力蜂起には最初は反対しており、特に佐賀単独での早期決起には反対していました。彼は政論でもって政府と戦い改革を目指そうと考えていました。郷里に帰ったのは武力蜂起をするためではなく、不平士族を諫めるためだったそうです。
しかし、江藤を嫌う大久保利通はまだ江藤の離京の知らせを受けて、「江藤は佐賀に帰って不平士族を扇動して反旗を翻すつもりだ」として、佐賀討伐の総帥として宮中に参内し、まだ江藤が佐賀に入る前から、佐賀に対する追悼令を受けています(2月5日)。
江藤新平は2月11日にやっと佐賀に入り、よく12日に佐賀征韓党党首として擁立されました。そして政府軍の行動を耳にし、ついに武力行使もやむなしとの考えにいたり、16日に佐賀の乱を引き起こしました。
西南戦争関係者との連携
同じ征韓論で政府との論議に敗れて下野した西郷隆盛率いる西南戦争。この戦争に関係した人物が佐賀の乱にも関係したのでしょうか。
江藤は「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が後に続くはず」という考えを持っていました。しかし、先の戊辰戦争で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族らは政府軍に味方したほか、反乱に同調しないものも多く、同じ佐賀藩内でも江藤の考えは及ばなかったみたいです。
2月23日、江藤率いる佐賀軍は寒津川・田手川の戦いで官軍の猛攻撃を受け、退却しました。この敗退で勝機を失ったと考えた江藤は鹿児島の西郷隆盛に助けを求めようと戦線を離脱します。
27日には江藤は鹿児島に入りましたが、この時の西郷には決起の意志はなく、江藤は冷たくあしらわれたそうです。しかたがなく、今度は土佐に向かい板垣退助や林有造らに決起を求めましたが、ここでも門前払いをされてしまい、さらにすでに土佐には手配書が回っていたので、3月29日に江藤新平は捕縛されました。
このように西南戦争を起こした西郷隆盛などは江藤に協力はしてくれませんでした。しかし、佐賀の乱が鎮圧されても不満をもっていた佐賀の士族の中には後に西南戦争に加担する者もいたそうです。
その後の江藤新平の処遇
3月29日、土佐の地で捕えられた江藤新平は、東京での裁判を望みましたが、天敵の大久保利通はそれを許さず、臨時でつくった裁判所で、元江藤の部下であり権大判事である河野敏鎌に審議を行わせました。
河野はかつての上司である江藤を恫喝しましたが、逆に江藤に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝されたといいます。
河野は恐れおののき、以降は自らは審議には参加しなかったと言いますが、江藤に十分に釈明の機会を与えないまま死刑を宣告しました。わずか2日間の審議だったそうです。江藤は4月13日の判決当日に斬首となり、見せしめのための梟首(きょうしゅ・さらし首のこと)とされました。
乱の後の影響
江藤新平は明治政府において功績があったため、乱の直後から「戊辰戦争を起こして後に赦免され要職についた榎本武揚に比べて刑が重すぎる」という意見があったそうです。また、イギリス大使ハリー・パークスもイギリス外務大臣宛の公文書に「江藤・島はさらし首にされた。この判決は大きな不満を呼んでいる」「佐賀の乱鎮圧で政府への信頼が回復したとは言えない」などと書いています。
反乱後は庶民の間で江藤の霊を信仰すると眼病が治り、訴訟事がスムーズに済むという風聞が流れたそうです。さらに江藤の墓を参拝すると百災がことごとく去るという噂も立ち、参拝する客が多く来たので、県は柵をして参拝を禁止したそうです。
江藤はその後1889年(明治22年)に大日本帝国憲法発布に伴う恩赦のため賊名を解かれました。