新撰組から桂小五郎を匿った幾松 2人の出会いと晩年
尊王攘夷の中心であった長州藩のリーダー・桂小五郎。
彼が愛した芸妓が幾松、のちに小五郎の妻となった人物です。
小五郎をとりこにした幾松とはどのような女性だったのでしょうか。
二代目「幾松」を名乗る
「幾松」というこの名は、養父・難波常二郎の妻が芸妓出会ったときに名乗っていたものです。
1856年、14歳で三本木「吉田屋」から芸妓にでました。
才色兼備で芸事に秀でており、二代目「幾松」を襲名すると瞬く間に有名になったといわれています。
小五郎とであった頃、幾松は山科の豪家が大変ひいきにしていて、互いに幾松を自分だけのものにしようと張り合ったという話があります。最後は小五郎に従っていた伊藤博文が刀で脅したとか。
イケメンの小五郎にも簡単におとせない女性だったんですね。
新撰組から小五郎を守る
ある時幾松が酒を買いに行く途中、新撰組の姿を見つけます。幾松は慌てて屋敷に戻り、小五郎を部屋に遭った長持の中に隠れさせました。
やがて新撰組が屋敷に踏み込み、探索しましたが、小五郎の姿が見つかりません。
最後に新撰組局長・近藤勇が三味線を弾く幾松の後ろにあった長持に手をかけようとしたその時、幾松は三味線のバチで近藤の手を払い、言いました。
「これほど屋敷内を改めて私に恥をかかせた上、もしもこの長持の中にどなたもいないとなれば、近藤はん、責任とって、この場で切腹してくれはりますか。その覚悟がおありどしたら、どうぞ改めておくれやす」
幾松の肝の据わった様子に近藤は「すまなかった」と言って立ち去ったといいます。
他にも、新撰組の屯所に連行され、小五郎の所在を尋ねられた際には、肌襦袢一枚になっても決して答えようとはしなかったという話もあります。
これを聞いた近藤は「さすが噂通りの女よ」と感服したそうです。
坂本龍馬の妻・お龍も、妹を助けるため男と戦ったという逸話がありますが、志士たちを支える女性には、男たちにもひるまない度胸が求められていたのかもしれません。
めでたく夫婦に
1868年(明治元年)頃から、小五郎は幾松との結婚話を進め始めたようです。
小五郎が長州藩を代表する武士であるのに対し、幾松は芸妓。身分差のある二人の結婚はそんなに簡単な話ではなかったのでしょう。
結局、幾松は長州藩士・岡部富太郎の養女となることで、形式上武家の出となり、結婚に至りました。
1869年からは二人で東京に暮らし、どこに行くにも一緒だったとつたえられており、外国人の友人にダイヤモンドの指輪を注文するなど、結婚後も仲睦まじい様子がわかります。
夫婦で海外旅行の話も出ていたようですが、実現することはなく小五郎が死去してしまうこととなりました。
小五郎死去後は剃髪し、養子・忠太郎と共に京都の木屋町別邸に住み、小五郎の墓を守りました。
1886年胃病により死去。享年44。
現在も見ることのできる二人の寓居跡
二人が京都にて仮住まいとした屋敷は、現在料亭「幾松」として、その建物は登録有形文化財となっています。
当時幾度となく尊王攘夷派の反対勢力による御用改めを受けていたため、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井などの逃げ隠れする仕掛けが現在も当時のまま残されているそうです。
期間内、10名以上の予約があれば幾松の間を見学することもできるそうなので、興味のある人は友人などお誘いあわせの上、幕末ロマンに浸ってみてはいかがでしょうか。