木戸孝允はどんな性格だった?
木戸孝允、またの名を桂小五郎は薩長同盟締結に尽力した人物として長州藩を代表する維新志士です。
彼はどんな人物だったのでしょうか。(以下、木戸孝允で統一します)
肩書にこだわらない
この前とあるテレビ番組で男性は女性よりも肩書を大事にするという話が取り上げられていました。
確かに、年齢に関わらず社長、部長、課長、義兄さん、義父さんといった肩書に男性は敏感な気がします。
しかし、木戸は肩書にこだわらず、上とも下とも友好的な関係を築くことができる人物でした。
上としては土佐藩主・山内容堂。二人は維新後に意気投合し飲み友達になったとか。
山内容堂といえば酒豪としても知られ「鯨海酔侯」とあだ名された程の人物です。
二人は互いの家を行き来するほど親密な関係だったといいます。
木戸の生きた時代も「飲みニケーション」が仕事ができる男の条件だったのかもしれませんね。
こうした一方で木戸は目下の人たちにも大変親切だったそうです。
交友関係の広い木戸は江戸に初めて出てくる長州藩士たちにとって頼りがいのある兄貴分でもあり、後に初代総理大臣となる伊藤博文も木戸の側で第一線で活躍する多くの維新志士と交流できたことで見聞知識を広めることができたと語っています。
また、村塾の三秀として知られ、池田屋事件に倒れた吉田稔麿も江戸に出てくる際、江戸での研鑽や諸有志への紹介に便宜を図ってもらっています。
木戸は自らの家に彼らを招いてはごちそうし、用事があれば自ら赴き話をするなど、どんなに立場が上がろうと決して奢ることのない人物だったといわれています。
米沢藩士で後に山県有朋の側近になる平田東助はある朝突然木戸が家を訪ねてきたので、寝ていた布団を庭に放り投げて迎え入れたなんて話があるそうです。
漫画のような描写ですが、それくらい立場と肩書を大事にした時代に木戸のような人は珍しく、それゆえに多くの人に愛されたのでしょうね。
緻密な未来予測
彼の性格の一端をうかがわせるものに薩長同盟があります。
内容は6カ条にまとめられていますが、幕府と長州が戦争になった場合、長州が勝った場合、負けた場合、幕府が兵を引いた場合、引かなかった場合…ありとあらゆる状況を想定していることがわかります。
木戸はひとつの局面から32通りもの起こりうる結果を考える人物だったといわれており、その点でとても思慮深い人柄だったことがわかります。
彼が神道無念流の免許皆伝を受ける剣豪でありながら生涯真剣を抜かず、「逃げの小五郎」に徹したのも、剣を抜くことが決して良い結果を招かないことを予測していたからかもしれません。
どこに行っても頼りにされる木戸
木戸自身は単独行動が多く一匹狼的な部分がありましたが、そうした彼を周囲は放ってはおきませんでした。
彼は行くところ行くところで必要とされ相談役や指導者として歓迎され、その能力を遺憾なく発揮することになります。
1852年に剣術修行として入門した江戸の練兵場では剣術師範・斎藤弥九郎に認められ入門1年で塾頭に抜擢、長州藩士・周布政之助に認められ長州藩の中枢に引き上げられ、江戸桜田藩邸の有備館用掛り、次いで舎長に任ぜられ、風紀が乱れていた館の改革を断行しました。
その後、対馬藩士に慕われ、対馬藩(長州藩とは縁戚)のお家騒動を解決し、さらに小五郎が潜伏先の出石から長州に戻ったときには、「大旱に雲霓を望むがごとき有様だった(大ひでりのときに、雨の前兆である雲と虹を待ち焦がれるような有様だった)」といいます。
木戸が一匹狼でいたくても周りがそれを許さない。そんな才能と人望の持ち主だったのです。

By: ume-y
誠実で情熱的な政治家
木戸は明治政府において主要な政治家たちからも高い評価を得ています。
その中でも注目すべきは薩摩藩出身・大久保利通が彼を認めている点です。
大久保という人物は他人を認めるような人物ではなかったといわれています。
しかし、そんな大久保も木戸について「自分の本来の政治上の考えは、全く木戸君の識見及び知識に符合しておる」と語っています。
また、大隈重信は「この両人の優劣を厳格に断定することはすこぶる困難な話である」とし、二人を讃えています。
台湾出兵を期に一度は明治政府を去った木戸でしたが、政界からの強い要請により再び復帰します。
しかし、その後持病が悪化し、1877年の西南戦争の最中に43歳の若さでこの世を去りました。
最後に意識朦朧となりながら大久保の手を取り「西郷もいいかげんにしないか」と言ったそうです。
彼がもし健康で明治政府で十分にその能力を発揮していたならば、木戸の名前を総理大臣としてもしくは外務大臣として学ぶこともあったかもしれません。
さらにはその後多くの犠牲をだした日清戦争、日露戦争、そして太平洋戦争に歩を進めることもなかったのではという気がします。
木戸という政治に誠実に情熱を持って取り組み、多くの人に慕われた人物を失ったことは、日本の歴史においても大きな損失だったのです。