島津家といえば、釣り野伏せに捨てがまりと何だか凄そうな戦術の名前が出てきます。
また、島津勢は兎にも角にも勇猛果敢な軍勢だったとも伝わっています。
今回は釣り野伏せを得意とした島津家久とその戦術について迫ります。
釣り野伏せとは
釣り野伏せとは、島津氏第16代当主で、島津家久の兄にあたる島津義久が考案したとされる戦法とされています。
大まかな手段としてはまず、全軍を三隊に分け、このうちの二隊は戦闘に参加させずに戦場となる場所の左右に待機をさせ、残った一部隊が敵と正面より戦闘を行います。
次にこの部隊は相手に押されて敗走するように偽装を行いながら、先程待機をさせた部隊のところまで撤退をしていきます。
この部隊を追撃してきた敵軍が接近してきたら、左右に潜んで二隊が相手を奇襲します。
そして、敗走を装っていた部隊も反転し三部隊で三方面から囲うように相手を殲滅するという戦法になります。
まとめると、釣り野伏せの「釣り」とは中央の部隊のみが敵に正面から攻撃し、敗走を装いながら囮となって、敵を誘因、「野伏せ」とは敵が、中央の部隊を追撃するために前進してきた時に、左右の伏兵がこれを襲うということになります。
簡単そうに見えますが、中央の部隊は、寡兵で敵の本隊とぶつかるだけではなく、敵軍を上手く引きこむように自然に後退をしなければならないという非常に難度の高い戦法です。
沖田畷の戦いにおける釣り野伏せ
九州の覇権を争っていた龍造寺氏との間で、1584年に起きた沖田畷の戦いにおいて、この釣り野伏せが効果を発揮します。
この戦において、龍造寺軍は約25,000、それに対して島津軍は島津家久率いる3,000と龍造寺軍に攻め立てられ島津家へ援護を求めた有馬晴信率いる3,000と合わせて、6,000と半分以下の軍勢でした。
この圧倒的な兵力を前に龍造寺軍は、敵軍が少数だということを知り、勝利を確信し、物見(敵情を探る者)も出さずに島津・有馬連合軍に攻めかかったとされています。
そして、予め囮となる予定だった部隊はたいした抵抗もせずに後退、沖田畷の狭い湿地帯に龍造寺軍を誘いこみます。
敵は寡兵と侮り、敗走をしていると思った龍造寺軍は見事にこのワナへと引っかかり、伏兵が潜んでいる場所まで突っ込んでしまいます。
敵軍が射程距離内に入ったことを確認した連合軍の伏兵は、左右から弓・鉄砲を使って攻撃を開始し、龍造寺軍の兵士を次々に殲滅していきます。
やられっぱなしではいけないと撤退をしようとする龍造寺軍ですが、後退しようにも、湿地に細道という条件で、後続の軍が続いているために戻ることも出来ず身動きが取れずにパニック状態へと陥りました。
そして、総大将の龍造寺隆信は、戦局が進展しないことに苛立ち、自ら前線に躍り出ようとしましたが、島津家久の家臣:川上忠堅に見つかり、討ち取られたとされています。
沖田畷の戦いによって、九州は島津家の物に!
この戦いによって、九州の覇権を争っていた島津家と龍造寺家の明暗が分かれ、総大将であった龍造寺隆信が討ち取られた龍造寺軍は総大将のみならず、重臣を多く失います。
これにより、龍造寺家の傘下にあった国人衆は流れは島津家にありと見、次々と離反し、島津家に帰順をします。
結果、島津家は筑前・筑後を治め、九州最大の勢力となり、九州の制覇を進めていきました。
また、島津家久は当主である長兄:義久や、鬼島津と恐れられた次兄:義弘などとは異なり正室の子でなかったため、身分が低かったのですが、この戦の活躍により初めての知行地4,000石を与えられたとされています。
島津家だけではなく、家久にとってもターニングポイントとなった戦が沖田畷の戦いだったのではないでしょうか。