桂小五郎の剣術の腕前はどの程度だった?
「逃げの小五郎」ともあだ名され、生涯で一度も剣を抜くことがなかったとされる維新の三傑の一人・桂小五郎。
彼はなぜ剣を抜かなかったのでしょうか?
桂の剣術の腕前は本物だったのでしょうか?
武士以上の武士になる
桂の生家は安芸の戦国武将・毛利元就の七男・天野元政の血をひく由緒正しい家系ではありましたが、父・和田昌景は藩医を勤めていました。
そのため、昌景は1846年に長州藩の師範代で柳生新陰流の内藤作兵衛の道場に入門し、1848年に元服した際には、「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」と桂に言い含めたそうです。
それ以後桂は人一倍剣術修行に精を出すようになったとか。少年・桂の素直な一面がわかるエピソードです。
練兵館の塾頭
桂は1852年、剣術修行のため私費で江戸留学をしています。そして江戸三大道場の一つ、練兵館に入門すると、入門1年にして神道無念流の免許皆伝を得て、塾頭となっています。
当時の練兵館には桂以外にも当時において日本一の剣豪と名高い仏生寺弥助もいました。左上段からの面打ちが得意で、宣言してから繰り出されるにも関わらず誰もそれを防ぐことができなかったといわれています。
剣術の腕だけが塾頭の条件ではなく、学問や統率力、人格など総合的な部分も重要だったと思われますが、塾頭が弱かったら道場の名折れです。
仏生寺ほどの剣豪がいながら桂が塾頭に選ばれたということを考えても、かなりの剣術の腕前だったと想像されます。
竹刀剣術でなく実戦主義を得意とした新撰組局長・近藤勇の道場では、竹刀剣術の道場破りが来ると、桂ら練兵館に応援を求めたというエピソードもあります。
桂の剣術の腕前を伝えるエピソード
桂は当時でも大柄なほうで、得意の上段の構えをとると「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」と伝えられています。
近藤勇も「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と桂の剣術の腕前を評しています。近藤勇といえば新撰組最強と名高い一番隊隊長・沖田総司が師と仰いだ人物です。
他にも幕府講武所・総裁で直心影流の男谷精一郎の愛弟子を撃破するなど、江戸でも剣豪として知られる存在であったようです。愛弟子といえば、男谷と並び「幕末の三剣士」の一人、島田虎之助や明治期に天覧兜割りを成功させ「最後の剣客」といわれる榊原鍵吉らのことでしょうか。
近藤にしても島田や榊原にしても剣術家として当時も現在でさえも知る人ぞ知る存在です。こうしたエピソードを見ても桂の剣術の腕前は明らかでしょう。
なぜ桂は逃げたのか?
それほどの実力者でありながら、桂が剣を抜いた、人を斬ったという話はありません。ただ一度だけ、文久3年(1863)に京の四条通において捕吏を一人切り捨てたという話が残されています。
しかし、それ以外にはなく、桂はときに変装までして逃げ続けたのです。
私はこの理由として二つのことがあると考えています。
一つ目は、桂が大変思慮深い性格であったということです。桂は一つの局面から32の結果を予測する人物だったといわれています。
そんな桂にとって、真剣勝負はあまりにリスクが高すぎたのではないでしょうか。真剣での勝負は竹刀での勝負とは全く違う。剣をよく知っている桂だからこそ、あえて剣を抜かず、戦いを避け続けたのだと思います。
二つ目は、桂の修めた神道無念流が竹刀剣術であったということです。前でも触れましたが、近藤勇らは実戦を重視した剣術であったため、竹刀剣術による道場破りが来た際には竹刀剣術を得意とした練兵館に応援を求めています。
これはつまり、桂ら練兵館は竹刀剣術を得意とし、実戦剣術ではなかったことをあらわしています。実際、他流試合において何度も胴を打たれて負けています。「神道無念流を相手にする場合は胴を狙え」とまで言われていたようです。
道着も当初、面・小手のみだったものから、胴・垂をつけるように変化しています。
そう言われてみれば、桂も得意は上段の構え、仏生寺の得意としたのも上段からの面打ちでした。
これでは真剣での対決をすれば胴を斬られて命を落としかねないわけで、こうした実戦に向かない剣術であったことを理解していたことも、桂が実戦を行わなかった理由であろうと想像できるのです。