徳川家康を討たんとして、挙兵をした石田三成。
その挙兵に一度は反対をしたものの最終的には三成の想いに応える形で参戦をした大谷吉継。
この2人には茶会の席での友情を伺わせる話もありますが、二人は衆道の関係にあったとする説もあります。
本当にそうだったのでしょうか。
衆道とは?
衆道は日本の男色(同性愛)において、武士同士のものを言います。
武家社会での男色は、女人禁制の戦場で武将に仕える美少年(お小姓)を伴ったことが始まりとされ、女性の代わりに性処理の相手をすることもあったと伝わっています。
衆道は武士の嗜みとして行われており、織田信長とその小姓:森蘭丸、徳川家康と井伊直政の関係が有名です。
石田三成と大谷吉継の出会い
大谷吉継の出自についてははっきりとはしていませんが、通説によると1559年に生まれたとされており、石田三成はその翌年、1560年に生まれています。
そして、二人の共通点としては同じく近江国、今の滋賀県の生まれです。
石田三成は1574年頃から、父:正継、兄:正澄と豊臣秀吉に仕えたとされています。
その三成の元を1575年頃、吉継が訪ねてきたのが2人の出会いとされています。
父の仕官先とされる九州から、三成のいる長浜までやってきた吉継は、三成に面会を求め、初対面にも関わらず、三成にこう言いました。
三成殿は秀吉殿のお気に入りと聞きました。そこで頼みがあります。私を秀吉殿に推挙して下さい。
誰にも負けずに(仕事に)励むから
最初は訝しんでいた三成ですが、吉継の率直さ、一点の曇りのない目に魅入られて、秀吉に吉継を紹介しました。
1586年の九州征伐において吉継は、兵站奉行であった三成の元で功績をあげます。
そして同年、三成が堺奉行に命じられると、吉継はその配下として実務を担当しました。
こうして、二人は上司と部下以上の友情関係を育んでいきます。
二人の衆道関係の真偽
並々ならぬ友情で結ばれていたとされる二人は、衆道関係にあったのではないかという文献もあります。
江戸幕府が編纂されたとされる『校合雑記』などにおいてですが、それ以外の文献にはそのような記録は見つかっていません。
また、衆道とは「若衆道」の略であり、その対象となるのは十代の若者です。
年齢の近いオジサン同士で…というのはあまりなかったことです。
ですので、衆道関係にあったかどうかは信頼性に欠けると言えます。
ただ、時は戦国時代、父子で敵対してもおかしくなかったこの時代、友情意識も疎かったはずです。
そんな中、友情を育み、石田三成に殉じる形で自害した吉継の死に様は、美談としてもてはやされました。
男色の心得として「互いに想う相手はただ一人だけ」とされるほど、男色が盛んだった江戸時代において、衆道相手のために命を賭けるという美談が多く残っています。
そのため吉継と三成の友情も、「衆道関係」として捉えられたのではないでしょうか。
その他には、徳川家康にたてついた三成を陥れるために唱えられた説であるとも言われています。