石田三成の旗印「大一大万大吉」にこめられた願いとは
大一大万大吉「だいいちだいまんだいきち」と言えば石田三成の旗印。
文字だけ並べると一見何だろう?と思ってしまうようなインパクトの強さもあってか有名ですよね。
そのせいか、石田三成の家紋=大一大万大吉という印象が強いのですが、実は石田三成が用いた家紋は九曜紋という9つの太陽を組み合わせた図象だったと言います。
何故、石田三成は関ヶ原の合戦で大一大万大吉を用いたのでしょうか。
戦国時代の旗と役割
戦国時代、一軍を率いる大将が陣に用いた標として「拠旗」「馬印」がありました。
「拠旗」は陣の所在を知らせる為の旗で複数掲げられ、「馬印」は大将の居場所を示す物として大将の傍らに掲げられました。
馬印については旗の形でなくてもよく、造形物など自由に作られているようです。この他にも戦場では鎧の受筒に立てたり部下に持たせる背旗が用いられています。
これらは武威を示し、部隊の一体感や士気を高める物だったと言われています。
石田三成が関ヶ原の合戦で用いたのは馬印(金の吹貫に九曜紋の金団扇)拠旗(大一大万大吉の合わせ文字紋)と言われています。
大一大万大吉の意味
大一大万大吉は一を「勝つ」と読み、万は「よろず」万年の繁栄、縁起の良い吉にさらに大を冠した大変めでたい物で幸福を願った文字紋です。
古くは木曽義仲を射落した石田為久という武将が使用し、山内氏や五味氏が使用していました。
これを気に入った三成が関ヶ原の戦いの際に採用したのだと言われており、特に石田家に伝わっている物ではないようです。
この六文字が意味するのは「一人が万人の為に、万人が一人の為に尽くせば天下の人々は幸せになれる」といったものです。
まるでラグビーの「皆は一人の為に、皆は一人の為に」みたいな言葉ですね。実はこれこそが家康との天下分け目の戦いに挑んだ三成の志だったのではないでしょうか。
悪者? 名君? 石田三成の人となり
後世ではとことん悪役とされ、親友の大谷吉継にも「君は横柄だから人がついてこない」と言われてしまった三成ですが所領の佐和山では領民に慕われていたそうです。関ヶ原の合戦の後、佐和山に入城した徳川家康はその質素さに驚いたと言われています。
どちらかと言えば、お役人体質の律儀で勤勉な性格であった三成ですから周囲の武将からは近寄りがたいと思われていたのかもしれません。
しかし、亡き主君秀吉を立て、民の為に心を砕いた彼の心には平和な世への願いがあったのではないでしょうか。裏切りが当然の戦国時代において曲げる事のない忠義と人々への思いやりを持った義の人としての三成がこの旗印からは伝わってきます。
なお、大一大万大吉の旗印は関ヶ原合戦屏風(井伊家所蔵)には描かれていますが、江戸末期以前の文献史料にはあらわれないそうです。徳川家にとって石田三成が義の人であったという事実はさぞ煙たい物だったのでしょう。
徳川光圀からは高評価!
ただし、徳川の人間でありながら石田三成を評価した人物もいます。
それが、水戸黄門こと徳川光圀です。
彼が記した『大日本記』には三成が立派な人物であった事を述べ、徳川の敵だったからと言って三成を悪く言うのは良くない、君臣共に三成のようになるべきだと書かれています。
石田三成の最期の潔さについては徳川家康も「三成はさすが大将の道を知る者だ」と感心したものだったそうですが、時代が下るにつれ徳川の敵といった側面が強くなったのでしょう。そんな中でも公正な判断を記した水戸光圀。さすが黄門様と言うべきでしょうか。
まとめ
「一人が万人の為に、万人が一人の為に尽くせば天下の人々は幸せになれる」その言葉を掲げ、忠臣としても領主としても筋を通して生きた石田三成。
黄門様も讃えた石田三成の精神、私達も大事にしていけば世界平和につながるかもしれませんね。