武田氏の滅亡という大きな事件の裏には、穴山氏を始めとした有力な家臣の裏切りが大きく関わってきます。
その穴山氏の当主:穴山梅雪と穴山氏は武田氏滅亡後、どうなったのでしょうか。
武田氏を見限った穴山梅雪
穴山梅雪を当主とする穴山氏は元をたどれば武田氏と同じく甲斐の国を支配する有力な一族でした。
武田氏とは結婚や養子縁組によって結びつき、家臣としては勿論、武田氏の親族としても大きな力を持っていました。
穴山梅雪自身も武田信玄の姉である南松院の子として生まれ、武田信玄の娘である見性院を妻に迎えており、信玄にとっては甥であり、娘婿でもあった重臣でした。
武田信玄が亡くなって嫡男の武田勝頼が跡を継いだ後、長篠の戦いが起こります。この戦いは武田氏の命運を分けたとも言われており、多くの優秀な家臣が命を落としました。
穴山梅雪はそこで武田氏の未来を予測したのでしょうか。天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍による甲斐侵攻の時には武田家を見限り、徳川家康に投降してしまいます。これには武田氏滅亡後、梅雪の嫡男に武田氏を継がせ、甲斐の国を支配させるという条件が含まれていたと言います。
勝千代の武田氏相続と断絶
武田氏の滅亡後、約束通りに甲斐の国は穴山梅雪の嫡男である穴山勝千代が支配する事になります。
梅雪は徳川家康と共に信長に会う為に安土へ向かいますが、堺を観光中に本能寺の変が起こります。
急ぎ所領に戻ろうとした梅雪でしたが、途中落ち武者狩りにあい命を落としてしまいます。その為に勝千代が穴山家の正式な当主となりますが、この時の勝千代はまだ元服前の10歳足らずの幼さでした。
天正15年(1587年)に元服し、武田信治と名乗った勝千代ですが、不幸な事に同年に疱瘡にかかり死去。享年16歳でした。彼には跡取りがいなかった為、穴山家は断絶してしまいます。
家康の血筋が武田家を継ぐも…
梅雪直系の断絶後、徳川家康は自分の五男:信吉を穴山(武田)氏の跡取りとして送り込みます。信吉の母親は穴山梅雪の養女であり、徳川家康の側室となった下山殿なので、血の繋がりは無いにしろ、武田氏を継ぐ資格はありました。
しかし、信吉もまた病弱だったようで、わずか21歳で疥癬(皮膚感染症)にかかり、実子をもうける事なく亡くなってしまいます。
こうして穴山氏はまたもや断絶してしまいました。
武田氏、穴山氏の最後を見届けた見性院
勝千代、信吉という当主を迎えながらも断絶してしまった穴山氏。
しかし、それを見守り続けた女性がいます。穴山梅雪の妻見性院です。彼女は梅雪の死後、信吉を養育したと言われています。
そして、穴山氏の断絶後は徳川家の保護下に入り、秀忠が侍女のお静の方との間にもうけた隠し子の幸松丸を養育しました。
この幸松丸が後の保品正之、3代将軍徳川家光の下様々な政策に携わり、会津藩主となった名政治家です。
武田信玄の娘として生まれて穴山氏に嫁いだ彼女は武田氏、そして穴山氏の最後をどんな思いで見届けたのでしょうね。