木曽義昌が武田勝頼を裏切ったのは仕方が無い事情があったらしい!?
武田信玄の死後、勝頼を裏切った武将の一人としてあげられる木曽義昌。
同じく裏切った穴山梅雪や小山田信茂と同じように武田氏の親族だった義昌ですが、彼の立場は二人とは微妙に違った物でした。
交通の要所であり、豊かな資源を持つ木曽の地を治めた彼の苦渋の人生を追ってみましょう。
縁戚とは名ばかりの苦しい立場
木曽義昌は古くは源(木曽)義仲の嫡流と言われ、木曽谷を本拠地とする木曽氏の当主です。
もともとは武田信玄の信濃侵攻に抵抗していましたが、弘治元年(1555年)に降伏すると、信玄の3女:真理姫を娶って武田家の親族衆に迎え入れられます。
しかし、実際には義昌の親族や家臣を甲府に送らせて人質とし、真理姫と共に監視の役目を果たす家臣を送り込むなど親族とは名目上、従属させられるような形だったとされています。
信玄の娘婿という点では同じく後に勝頼を裏切る事になる穴山氏と似ていますが、穴山氏が武田氏と並ぶ名門であったのに対し、木曽氏は随分と肩身の狭い立場だったと考えられます。
木曽義昌が武田氏を裏切った理由
長篠の戦いで大敗した武田勝頼は徳川家と北条氏への危機感からそれまでの躑躅ヶ崎館から新府に移す事を考えます。
そこで、新府に新しい城を築きますが、これによって賦役は増大し、重税が課せられる事になります。
それに不満を募らせた木曽義昌はとうとう織田信長と盟約を結び、武田氏を裏切ってしまいます。これが信長の甲州征伐のきっかけとなりました。
武田氏の親族とはいえ、義昌の立場は人質を取られて従わされているといった形でしたので、事実、義昌の裏切りによって、彼の母と子供達は新府城で処刑されています。
しかし、義昌の支配する木曽の地は天然の要塞とも言える地形に恵まれた土地だったために、木曽谷へと兵を向けた武田軍は、鳥居峠まで侵攻するも地の利を生かした義昌の軍に二度も撃退されています。
武田氏滅亡後の木曽義昌
武田氏滅亡後、木曽義昌は鳥居峠の戦いでの戦功を評価され、信長から新たに安曇、筑摩を与えられました。
本能寺の変で信長が亡くなった後は信濃の支配権を企らむも失敗し、旧武田領を巡って徳川家と北条氏の間に天正壬午の乱が起こると徳川家に味方します。
しかし、家康と秀吉が対立すると秀吉につくとあちらについたりこちらについたり。小領主はツライよと言わんばかりの世渡りぶりです。
その後、秀吉により家康の与力になるように命じられると天正10年(1590年)家康の関東への国替えと共に下総阿知戸(現在の千葉県旭市)へ赴くように命じられます。
これには秀吉の小田原征伐に病気だと言って行かなかったためや交通の要所かつ、優れた木材の採れる木曽谷を秀吉が欲しがったためなどいくつかの説がありますが、こうして、木曽義昌は先祖から受け継いだ領地を失う事になってしまったのです。
義昌は同地で死去し、家督は息子の義利が継ぎますが、この義利も素行が悪く、流罪になっている為大名としての木曽家は歴史から姿を消してしまいます。
名君としての木曽義昌
武田氏を裏切ったというマイナスイメージが付きまとう木曽義昌ですが、移封先の下総阿知戸では環境の整備や善政に努め、名君と言われたとされています。
実際に現在の地名である旭市にも木曽氏の先祖「旭将軍」義仲にちなんでいるとか。
義昌の元の立場から考えると、勝頼を裏切ったというよりも武田氏の支配から抜け出そうと必死に立ち回ったと言った方が近いかもしれませんね。