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石田三成と淀君(茶々)は愛人関係だった!?

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淀君は永禄12年(1569)に近江国小谷に生まれ、本名を浅井茶々および浅井菊子といいました。父は近江の戦国大名・浅井長政、母は織田信長の妹・市です。天正元年(1573)に、父・長政を信長に、さらに天正11年(1583)には養父・柴田勝家を秀吉に討たれますが、そのたびに救出されて保護されています。

そして淀君は天正16年(1588)、養父・勝家を討った敵である秀吉の側室となり、秀吉の子を懐妊するのです。

秀頼は秀吉の実子ではない

秀吉には正室・おね以外に淀君を含め側室が16人いたといわれています。(11人とする説もあります)

江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉も(特定出来るだけでも)16人の側室をもったとされ、男子26人・女子27人の子をもうけたといわれています。

しかし、秀吉の実子として記録にあるのは、石松丸(秀勝)、一女、そして淀君の産んだ鶴松と秀頼の4人だけです。

家斉と比べると明らかに少ない実子の数から、秀吉の生殖能力に問題があったとみられています。そんな秀吉に56歳になってできたのが秀頼なのです。かなりの老齢ということを考えても、医学的に違和感を感じずにはいられません。

さらに、九州大学教授・服部英雄が『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社,2012)の中で、秀頼は秀吉の実子ではないと論じ、最近では定説となりつつあります。

では、秀頼の父は誰なのでしょうか。それには諸説あり、淀君の乳兄弟である大野治長や名古屋山三郎などの名前が挙げられています。そして、一説としてまことしやかに噂されているのが石田三成なのです。

実際、大河ドラマ『秀吉』『功名が辻』『江~姫たちの戦国~』、さらには宝塚宙組の『美しき生涯-石田三成 永遠の愛と義-』の中で、淀君と石田三成の情事が描かれてきました。

しなしながら、秀吉への忠義一徹の男として知られている石田三成の名前がなぜ淀君の相手として挙げられるのでしょうか。

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三成と淀君の共通点

三成と淀君の共通点は同じ近江の出身であるという点です。

そうしたことから、三成は旧主である浅井の姫・淀君を崇拝してきたとする話があります。しかし、これは誤解です。

三成の石田家というのは、京極氏に代々士官してきた国人でした。京極氏は近江の守護です。しかし、永禄2年(1560)、京極氏は浅井氏に対し挙兵し、近江の北を追いだされてしまいました。つまり、同じ近江出身といえども、浅井氏は三成にとっては「敵の娘」なのです。

秀頼の父親が三成の可能性はあるのか

秀頼の誕生日は文禄2年(1593)8月なので、逆算すると淀君が秀頼を身ごもったのは、文禄元(1592)年11月ということになります。

しかし、文禄元年は文禄の役(朝鮮出兵)の真っ最中であり三成は文禄元年6月から朝鮮に渡っています。こうしたことから秀頼の父にはなりえないと考えることができるでしょう。

三成実父説はなぜうまれたのか

それではなぜ三成が淀君と関係をもっていた、という説が出てきたのでしょうか。

そもそも、「淀君」という呼称は彼女が生きていた時代から使用されてきたものではありません。戦国史の研究者として著名な小和田哲男氏は名前の後ろに「君」をつけた呼び名は、悪女・淫婦というイメージと共に売春婦の呼称にみられることから、蔑称として呼ばれてきたものであると論じています。こうしたことから、現在は「淀殿」と呼ばれるのが一般的です。

「淀君」という呼称が江戸時代以降に普及したことからすると、大阪の役で家康と敵対した淀君を奸臣と見る風潮があったと想像できます。そうであれば、関ケ原の戦いで家康と敵対した三成も同様に「奸臣」であるわけで、こうしてまことしやかに淀君と三成の関係が噂されていったのではないでしょうか。家康を東照大権現様として神に祭り上げた江戸時代において、その家康に敵対した二人を貶めるために幕府の御用学者が捏造したともいわれています。

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