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石田三成はお茶で出世をつかんだのか?

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石田三成と豊臣秀吉との出会いにはお茶が関係しているという説があります。

それはどのようなもので、真贋はどうだったのでしょう。

三成の三献茶

石田三成と豊臣秀吉の出会いには、世に知られた逸話があります。

秀吉が浅井長政の小谷城攻めの功績で浅井氏の旧領を拝領した以降のことです。

近江今浜の地を、信長の「長」の字を戴いて長浜と改名した秀吉は、小谷城に使われていた資材などを利用して、その地に長浜城を建築します。

築城が始まったのが天正元年(1573年)、完成したのが天正3年(1575年)から天正4年(1576年)と言われますから、おそらくそのころでしょう。

長浜城近くで鷹狩りをしていた秀吉は、その帰りに喉の渇きをおぼえてあるお寺に立ち寄ります。

そこで茶を所望した秀吉を接待したのが、一人の寺小姓でした。

その寺小姓は、最初に大ぶりの茶碗にたっぷりのぬるめの茶を持って来ます。

鷹狩りで喉の渇いていた秀吉は、それを一気に飲み干すと、もう一杯茶を所望しました。

寺小姓が二杯目として持って来たのは、最初よりも小さめの茶碗に、やや熱めにいれたお茶でした。

その飲みごろのお茶を飲んだ秀吉が、試みにもう一杯お茶を頼むと、寺小姓は小ぶりの茶碗に熱い茶をいれて持って来ました。

喉が渇いていた秀吉に最初は、その渇きをいやすためにぬるめの茶、渇きが少しおさまると二杯目はやや熱めのお茶、そして味わうための熱いお茶を三杯目に出すという、賓客の事情をよく察した接待だったのです。

秀吉はこの寺小姓の心配りに感心し、連れて帰って家来の一人にします。

この寺小姓こそがのちの石田三成だった、というのです。

「三成の三献茶」あるいは「三椀の才」として知られる話ですが、事実であったかというと、かなり疑わしいものと考えてよいでしょう。

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資料的価値が低い「武将感状記」

まず、この逸話が載っている原資料が熊沢淡庵の「武将感状記(砕玉話)」のみだという点です。

現代でもこれほどよく知られている逸話が、三成本人がいた時代に語られていないというのは不可思議です。

そもそも「武将感状記」が成立したのは、江戸時代中期の正徳6年(1716)年で、この逸話の150年近く後なのです。

たとえていうならば、2014年になってそれまで誰も知らなかった幕末の土方歳三の逸話が発表されて、しかもその根拠となる史料は何もない、というようなものです。

「武将感状記」にはそのような記述が多く、史料としての価値はあまり高くはありません。

しかも、著者の熊沢淡庵は肥前平戸藩士で、熊沢蕃山について陽明学を学んだ学者という触れこみなのですが、それを裏付ける証拠もない正体不明の人物なのです。

 

舞台となった寺には2つの説

これでは、三献の茶の逸話もにわかには信じがたい話ということになります。

また、石田三成が寺小姓であったという話も、信頼できる史料にはありません。

なにしろ、秀吉との運命的な出会いとなった寺の名前も「武将感状記」には記されてはいないのです。

そのため、この話を事実とする人の間では、米原市の伊富貴山観音護国寺(観音寺)、長浜市の法華寺三珠院の2つの説が立てられていますが、当然のように決着はついていません。

秀吉は天正5年(1577年)から中国攻めの司令官として姫路城に入城し、三成はそれに従っているので、二人の出会いはそれ以前になります。

三成は永禄3年(1560年)の生まれですから、その時は16歳以下であったろうと推測されます。

ところが、三成の長男で関ヶ原の戦い後、剃髪して京都の妙心寺の塔頭・寿聖院に入って許された宗享禅師(石田重家)の残した「霊牌日鑑」には、三成が秀吉に仕えたのは18歳の時で、場所も秀吉が司令部を置いた姫路であったということが書かれています。

石田三成の家は、近江国坂田郡石田村の有力な土豪であったと言われています。

三成は、父の正継、兄の正澄とともに秀吉に仕官したという説も有力です。確かに、近江の土豪であった石田家が、近江を支配していた浅井氏の滅亡後秀吉に臣従した、と考える方が三成が寺で偶然のことから小姓に取り立てられたとするよりは合理的でしょう。

身分が低かった寺小姓

寺小姓というのは、主人の秘書やボディガードの役割をする武家の小姓とは違い、寺院での僧侶の雑用係でした。

江戸時代にはしばしば僧侶の男色の相手となっていたため、身分的にも武家の小姓よりはるかに下に見られる存在だったのです。

このため、江戸時代になってから石田三成の出自を卑しめるために、寺小姓上がりとしたのではないか、という説もあります。

また、そういう身分である寺小姓が、武家の小姓のように賓客の接待をするというにもおかしな話ではあるのです。

さらに、この逸話の核となるお茶についても疑問の点が残ります。

現代の我々がこの話を聞くと、ここに登場するお茶は煎茶であって、三杯目の少量の熱いお茶というのも納得がいくのですが、煎茶が日本で盛んになるのは、熊沢淡庵がいた江戸時代中期のことなのです。

秀吉の時代のお茶は乾燥させた茶葉をすり潰してお湯でとく挽き茶、抹茶が主流ですから、三杯目によく味わうのならば、熱いお茶よりも濃いお茶という方がふさわしいようにも思えます。

以上のような点から、この三献茶は後世の創作ではないかと考える研究者は多いのです。

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