豊臣政権における、五奉行には序列があった!?
豊臣秀吉の政権末期に、五大老と五奉行が任命されました。五大老は徳川家康などの有力大名から成っていました。
それでは、五奉行とはどんな役職で、誰が任命されていたのでしょう。
序列はあったのでしょうか。そんなところを見ていきたいと思います。
五奉行とはどんな役職?
五奉行が設置されたのは、秀吉の関白就任後であるとか、秀吉が病臥し五大老を設置した時期と同じであるとか、はっきりとはしていません。
実は5人という人数も定まっておらず、6人だったこともあるようですが、ここでは5人ということで見ていきます。
五奉行は、豊臣政権の実務面=行政を担う役職でした。一般的な政務である司法・行政や土木、財務のほか、朝廷や寺社、公家などとの折衝を行ったりしていたのです。
五奉行の序列の考え方
五大老の筆頭というと徳川家康、次いで前田利家といったところですね。これには明確な序列がついていたわけではありませんが、石高などでそうみなされていたようです。
五奉行も、はっきりした序列はつけられていませんでした。ただ、筆頭とみなされていたのは浅野長政であるとの見方が多数です。
一方、石田三成が筆頭であるという説も見かけますので、やはり決まった序列はないようです。
もちろん、石高の差などが多少あるので、周りの見方としての序列があったのでしょう。
五奉行だった人物
五奉行それぞれについて簡単に紹介しましょう。
浅野長政:甲斐・府中21万5千石
主に司法を担っていました。秀吉の最古参の部下で、北政所の義兄弟に当たります。行政手腕に長け、太閤検地の責任者でもありました。秀吉からの信頼は絶大だったようです。しかし、関ヶ原の戦いでは家康に味方しています。
石田三成:近江・佐和山19万石
主に行政を担いました。実務面で力を発揮し、秀吉から信頼されていましたが、人望の面で少し欠けたようです。検地奉行の職にもついていました。関ヶ原の戦いの口火を切った人物です。
増田長盛(ましたながもり):大和・郡山20万石
主に土木面を担いました。彼も検地奉行となっています。秀吉に従い多くの戦で武功を挙げましたが、関ヶ原の戦いで家康に内通し、改易の後に切腹という最期を遂げています。
長束正家(なつかまさいえ):近江・水口5万石
主に財政面担当でした。元々は丹羽長秀に仕え、後に秀吉に仕えています。彼も検地事業に参加しました。
関ヶ原の戦いでは西軍に参加しましたが敗走し、後に切腹しています。
前田玄以(まえだげんい):丹波・亀山5万石
主に朝廷や公家、寺社との交渉を行っていました。彼は僧侶でもあり、織田信長の後に秀吉に仕えました。朝廷とのパイプがあり、重要な存在であったようです。
ただ、石田三成の挙兵を家康に伝えたりなど内通行為も行っています。
五奉行の中では、前述の通り浅野長政を筆頭とみなすことが多いようです。やはり、秀吉の信頼の厚さと実務の能力に重きが置かれたのだと思います。三成も能力は十分と言われていますので、長政に次ぐ存在だったと考えて良いと思います。また、僧侶である前田玄以が持つ朝廷や寺社とのパイプは重要視されたはずです。
とはいえ、五大老・五奉行は合議制を取っていたので、それぞれが持つ一票の重さのようなものは同じでした。五奉行に関しては、石高にも大きな差があまりありません。築き上げてきたキャリアと信頼関係の差が、序列めいたものに反映されたのではないでしょうか。
最後に
全員が秀吉の国家事業である太閤検地で重要な役割を果たし、実務面のエリートだった五奉行ですが、全員が最後まで豊臣家に忠誠を捧げたわけではありませんでした。
優秀な頭脳をもってしても戦況を読み違えることはありますし、歴史の渦というものには逆らえないのですね…。