善政を行った徳川家宣 実は徳川歴代将軍で一番の名君だった!?
江戸幕府の第6代将軍、徳川家宣(とくがわいえのぶ)。
彼は名君と呼ばれ、彼の治世は次の7代将軍家継と合わせて正徳の治と呼ばれます。
そんな家宣の治世とはいったいどのようなものだったのでしょうか?
名君と呼ばれる理由
徳川家宣は新井白石や真鍋詮房を重用し政治を行いました。
まず、前将軍:徳川綱吉が定めた悪法と言われる「生類憐みの令」を廃止(捨て牛馬の禁止、捨て子・病人の保護などは存続)します。
生類憐みの令は元は「殺生を慎め」というだけのものでしたが、なかなか遵守されないので、後に犬を虐待する者を報告したら賞金が与えられるというものに変化し、そのために単なる精神論を超えた監視社会となってしまいました。
これに苦しめられた民衆はこの法令の廃止は喜ぶべきものだったのです。
また、漢文で書かれていた武家諸法度(武家を統率するための法)を和文に直し、体形的に見直しを図りました。(宝永令)
さらに琉球や朝鮮などとの外交問題にも取り組み、それまで財政を圧迫していた朝鮮通信使に対する接待費用を従来の約6割に削減しました。そして悪評であった宝永通宝と酒税を廃止し、宝永通宝のかわりとなる正徳金銀を発行しました。
このように綱吉時代の悪政を正し、財政問題も解決させたところが名君と呼ばれる由縁とされています。
家宣の治世
家宣は将軍職についてわずか3年で亡くなり、それに次ぐ家継も幼帝として立ちますが、わずか8歳で亡くなっています。
それゆえこの二人の治世は合わせてもわずか6年程度であり、正徳の治の評価は難しいとされています。
ただ、旧来家継の後任として、紀州藩から将軍になった徳川吉宗は正徳の治を否定し、その改革を覆したと言われていましたが、必ずしもそうとは言い切れません。
むしろ実質的な経済政策の内容はそのまま引き継がれており、他にも有用な部分は継承されているので、家宣の治世は評価するべき点が多くあったということになるでしょう。
家宣の政治の特徴
家宣の政治は主に新井白石により指導されており、それは儒学思想に基づいたものでした。
家宣の政策の功績の一つに、閑院宮の創設があります。当時、宮家は伏見宮家、有栖川宮家、京極宮家の3家しかありませんでした。この3家を継いだ者のみが親王と名乗ることを許されました。その他の子女は全て出家させられていました。
朝廷と幕府は共存共栄の考え方からこの宮家の創設を考えました。皇継に何かあった場合、3家では心もとないという万一を考えてのことでした。実際に後桃園天皇が崩御した際、以前の3家からは後継ぎが出なかったため、閑院宮家から兼仁王が光格天皇として即位しました。
最近の皇室も後継者問題が話題になったりもしていますが、この時代に家宣の政策のおかげで現在まで続く皇統が途絶えるのを防ぐことが出来たと言えるのです。