徳川家康が江戸に幕府を開いた理由 京都や三河じゃないワケは!?
江戸は1590年に徳川家康が入城して以来整備が進み、徳川家の本拠地として栄えてきました。
そして、1603年家康の征夷大将軍就任と共に幕府が開かれます。
しかし、元々三河出身の家康が自身の出身地でも、当時の政治の中心の京都方面ではなく江戸に幕府が開いたのはなぜなのでしょうか。
その理由を地形的、政治的な条件から考察していきましょう。
江戸の土地条件と発展性
まずは江戸の土地条件が関係していると言われています。
これには3つの条件があり、1つ目は江戸の持つ地形の条件です。大きな都市が出来るにはいくつかの条件がありますが、その一つとして、広大な平地を持ち、海、大きな川に面しているということが重要であると言われています。
広大な平地の関東平野や東京湾に接し、そして日本の河川の中でも最大規模の利根川から水を引くことが出来た江戸は、まさにその成立条件を満たしていたと言えるのでしょう。
2つ目に物流の発達を整えやすかったという点があります。都市を発展させる為には物流が欠かせません。物が動けばお金も動き、人もどんどん集まって都市は大きくなっていきます。
当時の物流は馬による陸路と川による水路が重要で、特に船や水路の発展は当時の物流を大きく変えました。先ほど挙げた利根川の水を上手く利用する事で家康は江戸の物流を整える事を計画したのです。
この計画は都市作りにも影響を与え、江戸は水路を軸として街が作られ、物流の発達と共に都市はどんどん大きくなっていきました。
最後に江戸がまだ発展の余地を十分に残した土地であった事があげられます。
江戸が今までに言われているような荒れ果てた寒村ではなく、中世、もしくはそれ以前から一大都市であった事は近年明らかになってきましたが、それでも江戸はまだまだ発展の余地を残した土地でした。
それまでに関東に拠点を置いた鎌倉幕府や北条氏は、利根川近辺の勢力との兼ね合いから鎌倉方面に拠点を置いていました。
江戸が拠点になったのは、そういった勢力を一掃して徳川家康が江戸城に入ってからです。家康はそんな江戸の発展性に目をつけたのでしょう。
豊臣秀吉も同じように低湿地帯であった大阪を開拓し、一大都市として整備しています。
同じように都市を築くのであればということで、同じ湿地帯という条件を持った江戸が新たな時代の中心として選ばれたのです。
京都の拠点を失っていた徳川家
次に政治的な理由から見ていきましょう。
実は江戸幕府が開かれた1603年当時の徳川家は京都、特に二条城、伏見城を政治の中心にしていました。
しかし、徳川家の京都の本拠であった伏見城が関ヶ原の戦いの前哨戦において、1600年に落城、消失して伏見城の復興も二条城の本拠化と共に中途半端になってしまったこと、大坂にはまだ力を持った豊臣家があってそこから離れたかったこと、本拠の江戸から京都への距離があまりに離れすぎていること等の理由から、江戸に幕府を置くことにしたのだと言われています。
こちらはどちらかと言うと消極的で、仕方なく江戸を選んだのだといった印象です。
寒村の江戸を発展させたという家康の業績を持ち上げてみせるのも、政治的な理由が消極的な物だったからかもしれません。
まとめ
地形的、政治的、両方の面から選ばれた江戸という都市。
268年もの間幕府の拠点として栄えた江戸は東京と名前を変えた今でもなお発展を続けています。
その将来性を見出した家康の目は確かな物だったのでしょうね。