無類の将棋好きだった徳川家治 現在ではどれくらいの実力!?
江戸幕府第10代将軍、徳川家治。
彼は無類の将棋好きだったと言われていますが、その実力はどれほどのものだったのでしょうか?
徳川家治の将棋の実力
徳川家治は聡明で祖父である8代将軍吉宗に寵愛されて育ちました。
しかし、趣味に没頭して政治にはあまり興味を示さずほぼ田沼意次に任せきりだったため、暗君の称号を得ていました。
ただ趣味の分野では高い能力を発揮していました。その趣味のうちの一つが将棋でした。特に七国将棋(将棋類の一つで、3人から7人で行うもの)が好きで、家治の影響で短期間ですが流行したと言われています。
その将棋の才能は7段を許され「御七段目」と称されていました。現存している家治の棋譜(互いの対局者が行った手を順番に記入した記録)によると、それが純粋に家治が自身の実力のみで指したものだとするならば、その実力は現在のアマチュアの高段者レベルであったとされます。
しかし、対局マナーは非常に悪く、対戦途中で待ったをし、駒を元に戻すということをしていたとも伝えられています。
ある意味、将軍の身分ならでは許されていた行為ですね。
将棋好きが高じて本を作る
家治は詰将棋(将棋のルールを用いたパズル)を作成する能力にも優れ、晩年には詰将棋の図式集である『将棋功格』を著しています。
また、新しい将棋用語も創作し、例えば基盤の右上から「いろはにほへとちりぬるを」と呼びました。
国立公文書館には、『将棋功格』の原本とともに、家治の愛蔵書であった『無双』『図巧』『大綱』『駒競』などの原書が現存しています。
対局相手は名人級!
将棋界は宝暦11年(1762年)に空前の大名人と言われた三代伊藤宗看が没してから27年間、名人が空位のままでした。家治が44歳の天明元年(1871年)はこの名人空位の後期にあたります。
そんな中で家治は、『徳川実記』によると、五代目:伊藤宗印、後に十世名人になった六代目:伊藤宗看、後に八世名人になった大橋印寿(九代目・宗桂)を対戦相手としていたといいます。また、近習(お世話役)の者たちとも対局していました。
将棋はどこで会得した!?
家治は幼い頃から文武に明るく、祖父である吉宗から直接の教育・指導を受けていました。
吉宗の子で家治の父である家重が言語不明瞭の障害を持っていたため、吉宗は息子の分も家治に期待をかけていたのでしょう。帝王学や武術を教え込みました。このため家治は吉宗から多大なる影響を受け、祖父のように名君たらんといつも意識していたそうです。
しかし、将棋は父である家重も得意でした。家重は自ら新しい詰手を考え付くほどの腕前だったそうなので、家治の将棋好きはこの父の家重の影響があったのだと思われます。