別名「鬼左近」と呼ばれ、戦場での戦いぶりは鬼神のようであった島左近ですが、どうしてそれほどの猛将が石田三成に仕えていたのでしょうか。
後で登場しますが、三成には「過ぎた」家臣であったと評されています。
関ヶ原での突撃の際、彼が発した「かかれーっ!」という号令が、相手の兵たちの脳裏から離れなかったと言われているほどです。
どうやって三成は左近を口説いたのでしょう?
そして、なぜ左近は三成に仕えることにしたのでしょうか。
では、この戦国の世でおそらくいちばんアンバランスな主従について検証してみましょう。
三成に過ぎたるものと言われるほど、島左近は評価されていた!?
三成と左近について語られるときに必ずと言っていいほど登場するのが「三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城」という狂歌のような言葉です。
島左近(本名:島清興/しまきよおき)は、生没年がはっきりしません(1540-1600とも)。史料に登場するのも、1571年のことです。大和国の人で、畠山氏、筒井氏に仕えました(一説には豊臣秀長・秀保にも仕えたと言います)。
特に、筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えていた頃には、松永久秀(まつながひさひで)との戦いが起こっています。おそらく左近もここで武功を挙げたのでしょう。東大寺大仏殿の戦いや筒井城の戦いに参戦していたと考えられます。
ここでの功績があまりにも名高く、彼が順慶の後継・定次(さだつぐ)と合わずに筒井家を辞し浪人生活に入ってからも、多くの大名が仕官の誘いをかけました。
この有名な言葉の出自は!?
「三成に過ぎたるものが~」という言葉の出所ですが、宝暦年間(1751~1764)に成立したという逸話集「古今武家盛衰記」に見られます。
言ったのは豊臣秀吉だと伝えられています。
光成が左近を家臣に加えたと秀吉に話した時に、秀吉はひどく驚いてそう言ったのだそうです。
三成が禄高の半分を与えてまで左近を家臣にしたかった理由
多くの大名の誘いを断っていた左近は、三成の誘いも無論断りました。しかし、三成は諦めず当時4万石だった自身の禄高のうち、2万石を左近に与えると提案したのです。
三成は官僚タイプの人間であり、政治には長けていましたが、軍事には疎い人間でした。
そのため、弱点を補ってくれる家臣として、ぜひ、名声ある左近が欲しかったというわけです。
左近が三成の説得に応じた理由
上述のように、禄高の半分を与えると言った三成に対して左近が応じたのはなぜでしょう。
禄高の半分をもらったなら、主君と家臣の給料が同じということになります。
それは現代にあてはめて考えても、想定外のことですよね。
破格中の破格の待遇を提示されて、左近は、意気に感じたのだと考えられます。
その証拠に、左近は以後最期の時まで三成に忠義を尽くしたのです。
まとめ
残念なことに、関ヶ原の戦いにおいて、三成は左近の献策を受け入れることはありませんでした。三成はあまりに真面目すぎたのかもしれません。
ただ、左近は失望することなく、最後まで戦いました。あまりの奮戦ぶりに彼の遺体は見つからず、本当に関ヶ原で命を落としたのかどうかさえも疑問視されています。
彼もまた、忠義を尽くすことに対して、あまりにも真っ直ぐだったのでしょうね。