土方歳三は本当に「鬼」だったのか!? 残されたエピソードから性格を探る
拷問、粛清、厳しい掟や取り締まりなどにより、敵からも味方からも「鬼」と称され恐れられるほどだったと伝わる新選組副長:土方歳三。
一方では俳句を嗜む、感性の豊かな面があったり、部下を気遣う優しさを見せたりと、彼の性格はどんなものだったのでしょうか。
武州多摩での青年時代、上洛後の新選組時代、そして朋友であった近藤勇亡き後の箱館時代と、彼の短く太い生涯を3時代に分け、さまざまなエピソードなどからその性格を考察してみたいと思います。
バラガキ時代~武州多摩での青年期~
バラガキとはイバラのように人を痛めつける、乱暴者という意味。
土方歳三は武州多摩の豪農土方家の4男として生まれ、やんちゃな少年時代を送っていたようです。
他家に奉公中の17歳で「試衛館」に仮入門、25歳で正式入門しています。
近藤勇との出会い、沖田総司・井上源三郎・山南敬助・永倉新八・原田左之助・斎藤一・藤堂平助ら仲間との出会い、そして修行に明け暮れた日々が、のちの土方歳三を作り上げていきました。
エピソード
- 少年のころから武士に憧れ、「武士になったらこれで矢を作るのだ」と生家の庭に手ずから篠竹を植えたという。(その竹は現在でも生家跡である土方歳三資料館に生えていて、見ることができる)
- 子どものころ家の柱を相手によく裸のまま相撲を取っていた
- 女性関係で問題を起こし奉公先から帰されたという有名なエピソードがあったが、確定する根拠がなくのちの創作である可能性が大きいことがわかった。しかし、土方歳三のやんちゃな性格と見目の良さもあってか長い間事実として信じられていた。
- 通常は7年程かかると言われている天然理心流の中位目録を正式入門から約1年と7カ月ほどで取得。1860年に刊行された武州の剣客名簿「武術英名録」にその名が載っている。充分な修行ができたとは言えない仮入門の期間が長かったにせよ、高い実力を持っていたことがうかがえる。家業の打ち身薬「石田散薬」の行商をしながら剣術の修行を積んだという
- 祖父は「三月亭石巴」という俳人であり、姉のぶの夫、義兄佐藤彦五郎も「春日庵盛車」という俳号を持つ。そんな環境にいたからか、土方歳三自身も「豊玉」の俳号で、発句を趣味とする風流な一面もある。多摩の自然を詠んだ句が多く残っていて、のち浪士組として上洛する際『豊玉発句集』としてこれをまとめ、実家に残している。
これらのエピソードからは、努力家で負けん気が強く、また、感性の鋭い青年であったことがうかがえます。
「鬼」副長時代~上洛から新選組としての活躍~
烏合の衆の様相を呈す寄せ集めの新選組をまとめ上げるためのきつい掟「局中法度」を作った土方歳三。
朋友である新選組局長近藤勇を盛り立て、多くの権限を擁する副長という立場において、たとえ仲間であろうとも規律の乱れを厳しく取り締まりました。そのころの土方歳三のエピソードをあげてみましょう。
エピソード
- 新選組の鉄の掟「局中法度」を作成する。副長であった土方は多大な権限を持ち、規律の順守を強制した。芹沢鴨の暗殺は自ら執行、試衛館時代からの仲間であった山南敬助や藤堂平助もその例外ではなかった。新選組隊士で内部粛清や強制切腹の憂き目にあったものは、30人を超えると言われている。
- 天然理心流の免状は中位目録までだが、実戦にはめっぽう強かったという。足もとの砂を投げつけ敵がひるんだ隙に斬りつけたり、絞殺したり、羽織をかぶせて首を絞め落とし生け捕りにしたりと、縦横無尽な戦い方をした。
- 公用等で故郷に戻った時は、家族や甥、姪に優しく、土産を良くあげたという。姉ののぶに送ったとされる景徳鎮の茶碗が現存する。
- 怪しい動きを見せる薪炭商「桝屋」主人、桝屋喜右衛門(正体は近江浪士・古高俊太郎)を捕縛、厳しい取り調べを行った。中でも土方の行った拷問は凄惨で、逆さ釣りにして足の甲から裏に五寸釘を貫通させ、そこに百目ろうそくを立てて燃やしたという。この責めによって口を割った枡屋吉右衛門からもたらされた情報により、新選組の名が一躍有名になった「池田屋事件」へと発展していく。
- 京の女性にもてて大変だとの旨を書いた手紙共に、もらったたくさんの恋文を実家当てに送った。
近藤勇という男を押し上げるため、汚れ役を担い影に徹した印象のある新選組時代。
身内にこそ厳しくしなければ、隊の規律が守られることはないと判断したのかもしれませんが、このことが彼の「冷酷な鬼」イメージを作り上げているのかもしれません。
危険な香りが魅力的!という女性はいつの時代も多いものです。
孤高の武士時代~近藤亡き後から函館での最期まで~
時代の流れは容赦なく、新選組もその奔流に巻き込まれていきます。
鳥羽伏見、甲州勝沼と敗戦を重ね、これを機に長年新選組幹部として共に戦ってきた、永倉新八と原田左之助が離隊してしまいます。
失意の中の土方歳三を待っていたのは、敗走先の下総流山での朋友近藤勇との悲しい別れでした。助命嘆願も叶わず、近藤は斬首されます。
やがて向かった会津でも陥落は時間の問題という状態で、唯一残った幹部であった斎藤一に会津新選組を託し、土方歳三は仙台へ向かいます。この時点で、試衛館時代からの仲間たちは誰一人としていなくなってしまいました。
エピソード
- 仙台から、蝦夷へ行こうという時、土方歳三は部下たちには渡航を強制せず、結果的に23名が残ることとなった。その時、土方は自分の補佐役を務めた松本捨助に十両、斎藤一諾斎に三十両をそれぞれ渡した。自分だけが多い理由がわからなかった斎藤は金を返そうとしたが、「松本は一人身だが、斎藤は家族がいるので、金額の差はそのためだ」と土方に説得され、斎藤は涙を流して感謝したという。
- 戊辰戦争時には、いち早く洋装を取りいれ、西洋式の銃なども、戦闘の道具として視野に入れていたと言う。古い因習に固執しないで、便利なものは積極的に取り入れるなど、合理主義であったことがうかがえる。
- 終戦を迎える箱館まで土方に従い行動を共にした中島登は、箱館時代の土方が部下たちに慕われるのを「赤子の母を慕うがごとし」と評した。土方は若い部下の相談に乗ったり、ときには兵を労い一人一人に酒をふるまったこともあったという。
- 土方歳三は戦死の約一ヶ月ほど前、土方の年若い小姓、16歳の市村鉄之助に、自身の写真と辞世・髪の毛数本を託し、日野の佐藤彦五郎に届けるように命じた。市村は最期まで土方と共に戦いたいと泣いて嫌がったが、それを見た土方は刀を抜いて言う通りにするように脅した。泣く泣く承諾した市村は、路銀といざという時に換金できるように刀を二振り与えられ五稜郭をでて、土方の手配した外国船に乗ったという。それから約3カ月後、乞食のような身なりをした市村が日野の佐藤彦五郎の元へたどり着く。土方から預かった手紙には市村の保護を頼む内容が書かれてて、その時、市村が届けた写真が、現在私たちの見ることができる土方歳三の姿である。
- 箱館戦争において激しい海戦のあと、弁天台場の守りについていた兵たちが退路を断たれてしまった。孤立防衛をする弁天台場の兵のうち半数以上が新選組である。僅かな兵を連れ仲間を助けに向かった土方歳三は途中の一本木関門で狙撃され、戦死した。
支えるべき近藤勇と、かつて志を高め共に駆けてきた同志たちを失くしたことで、逆に土方歳三は鬼の仮面を脱ぐことができたのかもしれません。
たとえ戦において切れ者でも、鬼の仮面を脱いでしまえば、おそらく土方歳三は優しい男でした。慕い、従ってくれる仲間を大切にしました。
小姓の市村鉄之助に遺品を託したのも、まだ年若い彼を死なせたくなかった土方の不器用な優しさだったのでしょう。
「五稜郭を出てふりかえると、窓のところに自分を見送ってくれている土方先生の姿が見えた」と、たどり着いた日野の佐藤彦五郎宅で市村鉄之助は涙ながらに語ったといわれています。