1868年、京都の南で会津藩・桑名藩を中心とした旧幕府軍と薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍が交戦しました。
これが鳥羽伏見の戦いで、戊辰戦争の初戦とされるものです。
この戦いに敗北してしまったことで、260年続いた江戸幕府は崩壊へと転がり落ちてしまうのですが、そもそもなぜ旧幕府軍は敗北してしまったのでしょうか。
装備が劣悪だった?
一般によく言われているのは、新政府軍が最新兵器を導入していたのに対し、幕府は昔ながらの装備だったということです。
しかし、これに関しては否定的な意見があるようです。
確かに、会津藩や桑名藩といった諸藩や新撰組などは従来通りの装備で臨まなければいけなかったでしょう。しかし、この旧幕府軍には幕府陸軍というフランス式の軍が動員されていました。
新政府軍の銃がミニエー銃といわれる先込施条銃で武装していたのに対し、幕府陸軍も先込施条銃を装備、さらには元込施条銃も配備されていたといいます。
先込というのは、銃口から火薬を入れるタイプのもので、火縄銃と同じ形式ですが、元込というのはカートリッジタイプの弾丸を銃の後方から装填するタイプのもので、現在の銃はすべてこれになります。
薩長両軍が5,000人程度であったのに対し、旧幕府軍は1万5千。そのうち幕府陸軍は6000人程度であったといわれていますので、新政府軍に比べて幕府軍の装備が劣悪だったとはいえない状況であったことがわかります。
慶喜に戦意がなかった?
もうひとつ、よくいわれるのが将軍であり旧幕府軍の大将であるはずの徳川慶喜にそもそも戦意がなかったということです。
確かに、慶喜はこの鳥羽伏見の戦いの直接の理由ともいえる「辞官納地」に関して謹んでこれを受けていますし、恭順の姿勢を示すために二条城を出て、大坂城に退去もしています。
少し話は飛んでしまいますが、旧幕府軍は鳥羽伏見への行軍の際、鉄砲に弾を込めないままだったという話もあります。そもそも戦いに行くつもりではなかったのです。
敗戦の原因は慶喜の行動?
この鳥羽伏見の戦いにおける敗因として、慶喜の行動が最大の原因であることは間違いないでしょう。
1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いは、5日になると敗報が届くようになり、6日には敗残部隊が続々と大坂城に退却してくるようになりました。
こうした中、慶喜はこれらの軍勢を見捨て、会津藩主・松平容保や桑名藩主・松平定敬ら一部の側近を引き連れて江戸へと帰ってしまったのです。
慶喜が江戸城に到着した際、それを出迎えた勝海舟は、「敗戦の責任はあなたにある」と言ったそうです。
敵は薩摩
ここまでで触れたことを踏まえて、鳥羽伏見の戦いにおいて敗因のさらに原因となったのは「錦の御旗」であると考えています。
私たちはこの鳥羽伏見の戦いを旧幕府軍vs新政府軍と考えていますが、当初はそういう構図ではなかったのです。
慶喜が当初敵として考えていたのは、薩摩でした。
討幕の密勅が下ると、薩摩藩は攘夷討幕派の浪士を招き入れ、放火や掠奪・暴行などにより幕府を挑発する行為を繰り返していました。
しかし、討幕の密勅の直後、慶喜は大政奉還に踏み切り、これにより討幕の密勅は事実上取り消される形となっていました。
しかし、一度火のついた浪士たちを止めることは容易ではなく、挑発行為はその後さらにエスカレートしていったのです。そうした浪士たちを匿っていたことで江戸薩摩藩邸は庄内藩による焼き討ちに遭うこととなりました。
この事件の報を大坂城で受けた慶喜は、周囲の「薩摩討つべし」との声が沸き上がります。そして慶喜はこれを抑えることができず、朝廷へ討薩を上表、京都に向けて進軍することとなったのです。
つまり、当初慶喜が敵として想定していたのはあくまでも薩摩藩だったのです。
錦の御旗の登場
慶喜にはこの進軍で戦いになるという意識はなかったと考えられます。
弾を込めていなかったのも、複数口から攻め込まず、鳥羽伏見の2街道から攻めたことも、縦列で進軍したことも、すべては戦いを想定していなかったからと考えれば当然でしょう。
1万5千という大軍で攻め込めば、薩摩軍は道をあけるだろうくらいに考えていたのではないでしょうか。
しかし、状況はそれほど簡単なものではなかったのです。
さらに慶喜を驚かせたのは、錦の御旗の登場でした。
数百年も使われておらず、誰も見たことのない旗ではあったものの、錦に刺繍された菊紋は間違いなく天皇のものであることは慶喜にもはっきりとわかったはずです。
朝廷に上表して薩摩と戦っているはずなのに、なぜかその朝廷が薩摩の味方となっている。
このことは、大政奉還後もそれなりの勢力を保ちながら政治の中心に立とうとする慶喜に、大きな動揺を与えたことでしょうし、一挙に戦線を離脱する理由とするに十分であったと考えられるのです。