土方歳三の辞世の句 どんな意味が込められているのか徹底検証!
「辞世」とは、この世との別れを告げることを意味します。
文人や武士・僧の多くは、戦や病など自分の死が近づいてくると、辞世の歌を残しました。
奈良時代の歌人柿本人麻呂から、昭和期の作家三島由紀夫まで辞世の歌はあり、時代は変わりつつも人間の、「最後に臨んで何かを残したい」という衝動は変わらないものなのでしょう。
形式は和歌、漢詩、俳句などさまざまですが、多くのものが自分の生涯をふりかえったり、死に対する思い、遺された人への思いなどを込めたものになっています。
特に武士階級では、「切腹」という因習があったため、それと組み合わさるように辞世の歌も発展していきました。
今回は、「最期のサムライ」とも呼ばれる土方歳三の辞世の句について、調べていきたいと思います。
似てる句が何故2つある?語句を分かりやすく説明!
この2首が、長い間辞世の句として伝わって伝わってきたものです。
たとえ身は蝦夷の島根に朽ちぬとも 魂は東の君やまもらん
よしや身は蝦夷の島辺に朽ちぬとも 魂は東の君やまもらむ
意味としてはどちらも「たとえ私の身が、蝦夷の地で朽ち果てようとも、魂は東にいる君を守るだろう」 とされています。
そっくりな歌が、少しの違いだけで2首あるのは、どうしてでしょうか。
素朴な疑問をもって、まずは語句や文法などをよく検証してみます。
まず、最初の語句、「たとえ身は」と「よしや身は」が違います。古語辞典で調べてみた結果、「たとえ」も「よしや」もそのあとの語句に「とも」があると、逆説の仮定条件を表す同一の意味を持つ言葉でした。
続いて「島根」と「島辺」です。この場合、島根の「根」は口に出した時や言葉を並べた時にリズムや調子を整える接尾語と呼ばれるもので、特に意味はありません。
一方の「島辺」は「島のあたり」「島の近辺」という意味になります。
「まもらん」と「まもらむ」、「ん」「む」も同じ推量を表す助動詞です。でも、「む」の方が文語表現で堅くて武骨な感じがします。
こうして解体して、詳しく説明してみても、大きな違いは見られないようです。
ということは、もともと一つの辞世の句だったのが、「誰かの手によってよりイメージが伝わるように添削」され、結果両方とも流布したという可能性も考えられます。
「東の君」って誰のこと?
では次に「東の君」とは誰のことでしょう。
土方歳三は、旧幕府軍として戦ってい続けていたので、「東の君」は徳川家や幕府、江戸時代最期の将軍徳川慶喜のこととの解釈が一般的です。「君が代」や「主君」といったように「君」という呼び方は、尊い人を表す言葉でもあります。
他にも、故郷日野の家族や親族のこと、残してきた恋仲の女性、共に戦ってきた新選組の隊士たち、が「東の君」ではないかと考える説もあります。
作った本人が解説する以外は、すべて想像の域を出ませんが、私は(徳川家→江戸幕府→武士の世→武士道の精神)という連想をします。
土方歳三が最期まであり続けようとしたのは「本物の武士」です。彼の掲げた新選組の理念「義」や「誠」はストイックな武士道の精神の代表的なものでした。
皮肉なことに、土方歳三の死後まもなく、戊辰戦争は終結、武士の世は終わりを告げます。
土方歳三ははたして、彼にとっての「東の君」を守れたのでしょうか。
「東の君」とは誰のことか。答えは簡単に出そうにありません。
もともと、和歌とは、1つの言葉に複数の意味を掛ける、「掛詞」という手法があります。それを踏まえてみると、さまざまな意味を包括しての「東の君」であったのではないのでしょうか。
詠まれたタイミング
辞世の句が読まれた時期についても、はっきりしたことは分かっていません。
ただ、蝦夷との言葉が出てきている以上、石巻から本州を離れ遠い蝦夷地(北海道)に向かってから以降であることがわかります。
年代にすれば1868年から1869年にかけて。石巻を出発したのが1868年の10月、土方歳三が戦死した日が1869年の5月11日ですので、その間のことと推測されます。
箱館の厳しい冬に阻まれ旧幕府軍にとって戦況は不利な状態のまま、ついに新政府軍の蝦夷地上陸を許してしてしまいます。
雪解けを待っていたかのような新政府軍による箱館総攻撃の前夜、1869年の5月10日。
旧幕府軍は、屋上庭園もある豪華な料亭「武蔵野楼」で、最後の酒宴を設け、別れの杯を交わしたと言います。
実は、近年、その時に読まれたのではないかと言われる和歌が新たに発見されました!
これがほんとの辞世の句?近年発見された新説
2011年、京都にある幕末維新ミュージアム「霊山資料館」で、所蔵していた資料を修復するために調査していたところ、土方歳三が詠んだと思われる和歌が発見されました。
京都時代から新選組に入隊、土方歳三と共に箱館戦争を戦い生き延びた「島田魁」が、隊士や幕府側藩士たちの作品を集めた和歌集の巻頭歌として、その歌はありました。
戊辰戦争終結後も明治を生きた島田魁は、明治政府からの士官の誘いも断り、その生涯を亡くなった隊士たちの菩提を弔いながら過ごしました。戦死した土方歳三の戒名を胸元に縫い付け、肌身離さず持っていたというエピソードは有名です。
この和歌集は島田家から寄贈されたものだそうで、武蔵野楼の別れの宴で読んだ辞世の句を、島田魁が書き留めていたものではないかとは同資料館の学芸課長木村幸比古氏のお話です。
鉾(ほこ)とりて 月見るごとに おもふ哉(かな) あすはかばねの 上に照かと
鉾を手にし、月を見上げるたび思うのだ。あすは屍の上に、あの月光がふりそそぐのだろうかと。
戦況を読むことに長けた土方歳三ですから、負け戦だと、きっと分かっていたはずです。
それでも、付いてくる隊士のため、仲間と信じた義のため、そして自分の死に場所のため、土方は駆けることを止められませんでした。
歌からは、土方歳三の静かな覚悟が伝わって来るようです。