土方歳三が五稜郭の戦いに挑んだ理由とは?
新撰組の鬼の副長として知られ、現在もそのイケメンぶりから人気のある土方歳三。
そんな土方は1869年、北海道函館の五稜郭にて35歳という若さで戦死しました。
時代は明治へと変わり、戊辰戦争が残党狩りのような様相を呈してくる中で、なぜ土方は戦い続けたのでしょうか。
鳥羽伏見の戦いの後の土方
鳥羽伏見での敗戦後、土方は内藤隼人と名乗り、甲斐(現在の山梨県)に向かいました。
しかし、そこで起こった甲州勝沼の戦いで再び敗北。さらに、流山で再起を図っているところを新政府軍に包囲され、行動を共にしていた新撰組局長・近藤勇が逮捕、処刑されてしまいます。
土方はその後、島田魁ら数名の隊士とともに旧幕府軍と合流、先鋒軍の参謀を務めました。
壬生の戦いでの足の傷の療養のため会津に護送され、その後会津戦争が激化したことで仙台へと向かい、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流しました。
土方は奥羽越列藩同盟の軍議にも参加しましたが、まもなくこれも崩壊。
その時、土方は戦う地がある限りどこまでも戦うことを決意したと言われています。
箱館戦争へ
1867年10月12日、土方は新撰組の生き残り隊士らと共に仙台を出港し、20日蝦夷地の鷲ノ木に上陸しました。
蝦夷地に上陸して後は、五稜郭、松前城、江差を占領し、12月15日には榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」を成立させました。
しかし、その後の新政府軍との戦いでは、土方率いる軍は奮戦しましたが、味方の敗戦が響き、戦況は厳しいものでした。
そして1869年5月11日、新政府軍の函館総攻撃の乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬。側近が駆け寄った時にはすでに絶命していたといわれています。
その後、土方の遺体は小芝長之助らに引き取られ、他の戦死者とともに五稜郭に埋葬されたとされていますが、その場所は未だ特定されていません。
なぜ戦い続けたのか?
蝦夷共和国の閣僚で戦死したのは土方だけだったそうです。
確かに軍の総督という立場にあるなら、前線にいることはほとんどなかったでしょうから、生き残るのも当然かもしれません。
しかし、土方は箱館戦争において常に前線で兵を率いて戦いました。
なぜ土方は戦い続けたのでしょうか。
その理由が、土方の辞世の句とされているものから伝わってくると私は考えています。
当初、土方の辞世の句は「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらむ」と考えられていました。
しかし、2012年に霊山歴史館の木村幸比古氏が、島田魁がまとめたとされる和歌集の巻頭歌である「鉾とりて月見るごとにおもふ哉 あすはかばねの上に照かと」が土方の辞世の句である可能性が高いとする説を提唱されました。
箱館戦争の折、榎本たちから降伏するかどうかという議論が出た時、土方は「このまま生き延びれば、あの世で近藤さんに合わせる顔がない」と述べたそうです。
このエピソードや辞世の句から、戦いの中で人生に幕を閉じたいと考えていた土方の強い思いが感じられます。
土方はもちろん勝つために戦っていたでしょうが、しかしその一方で死ぬために戦い続けていたのではないでしょうか。
そうした土方の思いとともに、その最期を見つめると、見事な死に様であったと思うのです。