人は城 - 勝利を築くための礎は人!武田信玄の戦国人生観
人は城、人は石垣、人は堀。戦国史ファンなら、きっとこの言葉を一度は目にしたことがありますよね?
そう、この言葉は武田信玄の名言としてよく知られているものです。
これには続きがあるのですが、全文をご存じの方は意外と少ないのではないでしょうか?
今日は、その残りの部分についてや全体の意味そして由来など、この名言を少し掘り下げてアプローチしてみましょう。
実は”和歌”だった名言-甲陽軍鑑で引用
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、讎(仇=あだ)は敵なり
全文はこうです。出典は江戸期に広く読まれた甲州流軍学書の『甲陽軍鑑』品第三十九。『甲陽軍鑑』はこれまでもたびたびその名を挙げさせて頂いていますが、武田家の重臣である春日虎綱(高坂昌信)が口述したものを、虎綱の家臣及び家臣の子孫が書き継いで成立したとされています。
その中に、”ある人が信玄公の御歌(みうた)としてこれを云う”として持ち出されているのがこの言葉。
つまり、これはただの言葉ではなく、和歌だという訳ですね。このように、ある人が言ったというように原典でもはっきり信玄の歌だと断言はされていませんので、これが武田信玄の作歌だとは残念ながら断定することができません。
武田信玄は城には住んでいなかった
実際のところ、武田信玄はいわゆるお城に住んでいたのではありません。
信玄公の居館は甲府躑躅ヶ崎館と呼ばれ、堀や曲輪はありましたが、石垣や天守閣のある近世城郭ではなかったのです。
信玄の後継者である勝頼の時代になって初めて新府城が築かれ、甲斐武田氏の本拠が城となります。
ですから、特に有名な部分である”人は石垣”という発想が、信玄にあっただろうか?と考えてみますと、少し疑問に思わざるを得ません。
というのも城郭における石垣積みは、織田信長の安土築城以降、西日本を中心に急速に発展した技術だからです。
逆に甲斐・信濃など武田氏の領地がある東国では、原料の花崗岩の不足等の理由により石垣のある城はあまり造られていませんでした。
歌全体の持つ意味は信玄の処世術・人生観によく当てはまっている
けれども、総体的に見ればこの歌はやはり、武田信玄の詠んだものと言っても全く違和感がないように思います。
その意味は人は城にもなり、石垣にもなり、堀にもなり得る。また情けは人を味方につけて国を守るが、讎(あだ)を作れば敵が増えて国が滅びる。
概ねこういったところでしょう。
父:武田信虎を駿河へ追放し、いわば無血クーデターとも言える形で甲斐の領主となった武田信玄。
その陰には、信虎の強権的な支配を嫌い、信玄を推し上げた武田家臣団の強い意向がありました。また、嫡子だった義信が家臣に担がれて謀叛を計画し、発覚した後に自害した(自害させた?)という苦い経験もしています。
そうした言わば強気な面のある家臣達をまとめながら領土を押し広げていった信玄公は、人の心の侮れなさ、そして人の上に立つためには人心の掌握が大切なことを常に肌身に感じていたと思われるのです。
後継者:勝頼への警鐘? それとも滅びた主家へのノスタルジーなのか
『甲陽軍鑑』は勝頼の代になって主君と家臣の間がギクシャクし、次第に傾いていく武田家の行く末を案じた春日虎綱が、勝頼への諫言の書として残すため口述したと書かれています。
この歌が”信玄公の歌と云う”されているのも、「信玄公の思いはこうでしたよ」と伝えたい、武田遺臣の願いだったかもしれません。