桶狭間の戦いと言えば、織田信長が今川義元を討った戦いですよね。
そのイメージが強烈すぎて、つい失念しがちなのですが、実は徳川家康(当時は松平元康)も出陣していたのです。
しかも今川方の一員でした。でも、桶狭間にいたというような話は聞きません。
では、家康はどこにいて、どんな働きをしていたのでしょうか。それを検証してみましょう!
なお、当時は松平元康でしたが、ここでは徳川家康として統一させていただきます。
今川方の先鋒隊としての家康
今川義元が家康に命じたのは、前線基地としての大高城へと兵糧を届ける、いわゆる「兵糧入れ」でした。
この時、大高城は織田信長による兵糧攻めを受けていたのです。まずはこの包囲網を突破する必要がありました。
そのため、家康は織田方の丸根(まるね)砦を攻め落とします。もう一方の鷲津(わしづ)砦は、共に先鋒隊だった朝比奈泰朝(あさひなやすとも)が落としました。
そして、家康は兵糧入れの任務を遂行したのです。
ちなみに、2人が丸根・鷲津砦に攻め込んだ一報を受けた信長は、あの有名な「敦盛」を舞い、熱田神宮で戦勝祈願をして桶狭間に向かったということです。
義元が奇襲を受けた時の家康
桶狭間で義元が信長の奇襲を受けたとき(諸説ありますが今回は奇襲とします)、家康は兵糧入れのために行った大高城にそのままとどまって城を守っていました。
義元率いる今川の本隊の到着を待っていたのです。
ところが義元はいつになってもやって来ません。
そして、信じられない報せが入るのです。
義元が討たれたと聞いた家康の行動
大高城の家康に入った報せは、義元が信長の奇襲により討死したというものでした。
しかし、家康はすぐに動くことはせず、しばらく様子を見ることにし、真偽を判断することにしました。
ですが、やはり義元討死の報は真実でした。家康は大高城を離れ、松平氏の菩提寺である大樹(だいじゅ)寺に入ります。
もはやこれまでと、先祖の墓前で切腹しようとした家康を、住職が止めました。
住職は「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」と説き、そこで家康は切腹を思いとどまったのです。この言葉は、「この世は戦国の世で皆が自分の欲のためだけに戦い、けがれている。しかしそれを厭ってここから離れたいと思い、浄土を求めるならば仏のご加護があるだろう」という意味のものでした。
家康はこれを終生自分の旗印としています。
切腹を思いとどまった家康の元に、今川方が岡崎城を捨てて退却したと言う報せが飛び込んできました。岡崎城と言えば、家康が生を受けた、松平氏のかつての居城です。
この機会を逃さじと、家康は空となった岡崎城に入り、自分のものとしたのです。
これが、家康が今川氏の支配下から独立する第一歩となりました。
まとめ
家康が今川方に従っていたことは知っていましたが、このように先鋒隊として戦っていたことは知らなかった方も多いのではないでしょうか。
しっかりと挙げるところで功を挙げ、今川の支配から抜け出すのを狙っていたのでしょう。
義元の死という意外な結果が待っていましたが、それが家康の独立のきっかけとなったわけですから、戦国の世は何が起こるか本当に分からないものです。