徳川家康の兜に込められた意味とは?
家康の遺体が収められている栃木県の久能山東照宮には重要文化財の家康所用の具足があります。
前立てに大きな葉をモチーフにし、頭巾型の家康の兜にはどんな意味が込められているのでしょうか。
大黒天信仰
兜の頭巾は大黒天の頭巾がモデルとなっています。
ある時家康が大黒様の夢を見て、これは吉夢と、奈良の甲冑師に命じて造らせたのだそうです。
大黒様というと、米俵に乗って左手に福袋、右手に打ち出の小づちを持ったにこやかなおじいさんのイメージから豊饒や財福といった印象が強いと思いますが、本来は軍神・戦闘神でした。
大黒天を味方につけたのは家康?
家康はこの後、天正10年(1584)小牧・長久手の戦いにおいてこの兜を着用し、秀吉相手に勝利を収めています。
しかし、秀吉も大黒天を信仰している一人でした。
秀吉がまだ若いころ、子どもたちが三面大黒天像と遊んでいるのを見て、それを譲り受けました。三面大黒天像というのは大黒天の両側に毘沙門天と弁財天がいる像です。
秀吉はこの像に「もし自分が立身出世して名声を天下に伝えることができるならば粉々に砕けよ」と念じて、地上に投げつけたところその通り粉々になりました。
秀頼はこれを喜んで、仏工に命じ再び三面大黒天を彫らせたといいます。
そりゃあ粉々になるだろう、と思ってしまいますが、見事そこから立身出世していくのですから大黒天の御加護もあったのかもしれません。
しかし、小牧・長久手の戦いを制したのは家康だったのです。もしかしたらこの時にはすでに大黒天は秀吉から家康に鞍替えしてしまっていたのかもしれませんね。
家康はこの兜を着用し、関ヶ原の戦い、大坂の役と勝利を重ね、天下を徳川のものとしたのです。
シダの葉がモチーフ
正式名称「伊予札黒糸威胴丸具足」という家康の具足は、兜の前立てがシダの葉をモチーフとしていることから、「歯朶具足」とも呼ばれています。
シダの一種としてわかりやすいのは、山菜として私たちも口にすることがあるワラビではないでしょうか。
つまり、シダというのは山野に自生しているいわば「草」のひとつということになります。
戦国武将の兜の前立てといえば、直江兼次が「愛」という漢字をモチーフにしたり、伊達正宗は大きな月をモチーフにしたりと大きくて派手なものが思い浮かびますが、そんな中家康はシダをモチーフにしたのです。
浜松城の家康像の手にもシダが!
浜松城は家康が初代城主となった城です。
現在、浜松駅から浜松城までの道沿いの街頭の上には、兜の前立てと同じシダのオブジェが付けられており、城の東の石垣の下にある「若き日の徳川家康公の銅像」の家康は右手に前立てと同じシダのオブジェを持っています。
そもそもなぜ家康はシダを兜の前立てのモチーフとしたのでしょうか。
その理由として、「歯朶」の「歯」は「齢」=よわい、年齢を、「朶」は「枝」を表していて、長生きし子孫を繁栄させるという説があるそうです。
家康は当時にしては長寿の75歳まで生き、夭折・早死を含めると18人の子がいました。
秀吉が後継ぎに恵まれなかったことが豊臣家の滅亡を招いたといわれていますから、シダのように生きたことこそ家康が天下をとることができた最大の理由といえるかもしれません。
そう考えると、家康の兜に掲げたシダは、派手でこそないですが、家康の天下取りへの野望を密かに、しかしはっきりと示しているといえるのではないでしょうか。