織田信長がその名を轟かせた戦いこそが、桶狭間の戦いでした。
雨に紛れて今川陣営に奇襲をかけ、乱戦の中で敵将・今川義元を討ち取った…というのが、イメージとして浮かんできますよね。
しかし、これが奇襲ではなかったという説も生まれてきているのです。
それがどんなものか…気になりますよね?
それではさっそく、見ていきましょう!
奇襲でなかったという説
奇襲ではなく、正面攻撃だったという説が上がっているのです。
それは太田牛一(おおたぎゅういち)による「信長公記(しんちょうこうき)」に記録されており、牛一が信長に直接仕えていた人物であることから、信憑性が高いのではないかと言われているのです。
定説と新説の概要
定説(奇襲説)
江戸時代の儒学者・軍学者である小瀬甫庵(おぜほあん)が、「信長公記」を元に著した「信長記」に出てくるのが、定説となっている奇襲説です。
東海道を尾張に向かって進んでくる今川軍に対し、織田軍は、丸根砦・鷲津砦で次々と敗戦してしまいます。そして、信長は善照寺砦から出撃したところ、今川軍が桶狭間で休憩していることを知りました。
そこで信長は奇襲を仕掛けることを決め、気づかれないように迂回路を通ります。豪雨にも味方され、兵を進めた信長は、雨が止んだ直後に桶狭間の丘の上から今川軍に向かって突進し、相手を大混乱に陥れました。
そして、敵の大将・今川義元の首を取ったのです。
新説
こちらが、「信長公記」に基づくものです。
善照寺から出撃した信長は、南の最前線となる中嶋砦に入りました。
そこで、今川軍が桶狭間に向かって進軍していることを知ったため、そちらに向かいます。
豪雨により視界が悪く、この隙に接近することに成功し、正面から攻撃を仕掛けました。
予想外の攻撃に驚いた今川軍は混乱し、結局義元も討ち取られたのです。
どちらが説得力のある説!?
新説が出てきてからは、こちらの方が信憑性が高いと言われることもあり、論争になっています。
正面攻撃に関しては、信長は攻撃を仕掛けた相手が今川本隊とは思っていなかったのではないかとも推測されています。とにかく攻撃して少しでもダメージを与えて、形勢を有利にしたいと思っていたところ、結局それが本隊だったと言われています。
定説の方がドラマティックな展開でもあり、時代の転換期にふさわしいシナリオだなとは思いますが、この戦いに関する今川方の資料は少なく、本当に奇襲を受けて浮き足立ってしまったのか、判断が出来かねるようにも思います。
それを考えると、史料として信頼性の高い「信長公記」の記録の方が、より事実に近いのかなと考えられます。
まとめ
戦闘の形態だけでなく、桶狭間自体がどこの場所であったのか、今でもはっきりとは判明していません。
桶狭間の戦いとは、謎の多い合戦だったのですね。織田が今川を破るという、有り得ない番狂わせが起きてしまったからこそ、この戦いに関して様々な憶測が乱れ飛んでいるのでしょう。
これだから、戦国時代は面白いのです。